第9章 病室
病室は、静かだった。
白い壁、白いカーテン、白い天井。
どこを見ても、余計なものがない。ここでは、出来事はすべて整理され、名前を与えられ、原因と結果に分けられる。
それが、ひどく安心できる場所のはずだった。
美咲は、ベッドに横たわったまま、天井の一点を見つめていた。
身体は重いが、痛みは思ったほどではない。擦り傷と打撲。命に別状はない。医師はそう言った。
母は、何度も謝った。
父は、ほとんど何も言わなかった。
「無理しなくていいから」
母の声は、泣き腫らしていて、それでも必死に平静を装っていた。
「ちょっと……考え事してただけ」
美咲は、そう答えた。
それ以上の説明は、できなかった。
夜中にガレージで倒れていた。
意識は混濁しており、バイクは定位置にあり、エンジンは冷えていた。
すべてが、筋の通った説明だった。
事故ではない。
暴走も、森も、存在しない。
防犯カメラの映像も確認されたらしい。
シャッターが開く様子も、外に出る姿も映っていなかったという。
美咲は、その話を聞いたとき、奇妙な安心と同時に、寒気を覚えた。
――じゃあ、あれは、どこで起きたの?
問いは、飲み込んだ。
言葉にしてしまえば、すべてが「錯乱」や「ショック」に押し込められる。
それは、正しい処理なのだろう。
正しすぎるほどに。
病室の時計は、一定のリズムで進んでいる。
秒針の音が、やけに大きく感じられた。
美咲は、目を閉じた。
森の匂い。
冷たい腕の感触。
ハンドルに重なった手。
それらは、夢にしては、あまりにも具体的だった。
兄の顔を、はっきりと思い出せる。
声の抑揚、視線の動き、最後の「ごめんな」。
あれが幻覚だとしたら、どうしてあんな言葉を知っているのか。
どうして、あんな感情を、今さら思い出せるのか。
――走り続けてた。
その一言が、胸の奥で反響する。
浩二は、生きている間、止まれなかったのだろうか。
誰にも言えず、誰にも分かってもらえず。
病室のドアが、静かに開いた。
父だった。
「……調子はどうだ」
「うん」
短いやり取り。
それ以上、言葉は続かない。
父は、椅子に腰を下ろし、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「バイクは……処分する」
その言葉に、美咲の心臓が跳ねた。
「……そう、なんだ」
「事故の原因になったわけじゃないが……もう、十分だろう」
十分、という言葉が、何を指しているのかは分からない。
悲しみか、後悔か、それとも時間か。
美咲は、何も言えなかった。
引き止める理由を、言葉にできなかった。
それが怖いからなのか、安堵しているからなのか、自分でも分からなかった。
父は、それ以上何も言わず、立ち上がった。
ドアが閉まる音が、やけに遠く感じられる。
美咲は、ベッドの上で、ゆっくりと呼吸を整えた。
これで終わる。
そう思うこともできた。
現実は、すべてを「なかったこと」にしてくれる。
それが、救いになる人もいる。
だが、美咲の中には、まだ一つ、確かめていないことがあった。
――あの言葉。
メーターに刻まれていた、あの一文。
あれだけは、誰にも説明されていない。
病室の天井を見つめながら、美咲は、はっきりと理解していた。
これは、終わっていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます