第8章 衝突

 衝撃は、一度では終わらなかった。


 地面に叩きつけられた瞬間、骨が軋む感覚があった。

 だが、美咲の意識は、完全には途切れなかった。


 バイクは倒れなかった。

 それどころか、跳ね上がり、再び地面を捉え、走り続けている。


「……っ」


 息が詰まる。

 ハンドルを握る手が痺れ、感覚が遠のいていく。


 視界の端で、ヘッドライトが不規則に揺れる。木の幹、土、闇。すべてが断片的に流れ込んでは、弾き飛ばされる。


 制御は、完全に失われていた。


 ブレーキをかけているのかどうかも分からない。

 アクセルに触れている感覚もない。


 ただ、進んでいる。

 止まるという選択肢が、最初から存在しなかったかのように。


 背後の重みが、さらに強くなった。


 冷たい。

 それなのに、身体に密着している。


 美咲は、恐怖よりも先に、理解してしまった。


 ――これは、幻覚じゃない。


 振り返ることはできない。

 だが、分かる。


 そこにいるのは、兄だった。


「……どうして」


 掠れた声で、問いかける。

 返事は、すぐにはなかった。


 代わりに、バイクのエンジン音が変わる。

 低く、深く、まるで唸るような音。


 次の瞬間、視界の端に、腕が見えた。


 自分のものではない腕。


 夜に溶けるような色をした、細く、しかし確かな形を持った腕。

 それが、ハンドルの上に重なる。


 美咲の手の上に、兄の手があった。


「……走り続けてた」


 浩二の声は、すぐ近くで響いた。


「止まれなかった」


 感情の起伏がない声だった。

 責めてもいない。助けを求めてもいない。


 ただ、事実を述べているだけ。


「だから……分かってほしかった」


 バイクが、大きく揺れた。


 前方に、何かがある。

 暗闇の中に、硬い輪郭。


「やだ……!」


 美咲は叫んだ。

 兄の手を振り払おうとする。だが、力が入らない。


 浩二の腕は、離れなかった。


「ごめんな」


 その言葉だけが、はっきりと聞こえた。

 次の瞬間、激しい衝撃が全身を貫いた。


 世界が、音を失う。


 視界が白く塗り潰され、上下左右の感覚が消える。

 身体が宙に浮いたのか、地面に叩きつけられたのかも分からない。


 ただ、落ちていく感覚だけがあった。


 最後に、美咲が感じたのは、背中の重みが消えたことだった。


 そして、静寂。


 ――――


 目を覚ましたとき、天井があった。


 白く、均一で、どこまでも現実的な天井。


 消毒液の匂いが鼻を突く。

 遠くで、機械の音が規則正しく鳴っている。


「……?」


 声を出そうとして、喉が痛んだ。


「気がつきましたか」


 聞き覚えのない声。

 横を見ると、看護師が立っていた。


「……バイクは」


 言葉が、途切れ途切れになる。


「大丈夫ですよ。軽い打撲と、擦り傷だけです」


 軽い、という言葉が、現実感を伴わない。


「事故の記憶は、ありますか?」


 美咲は、答えなかった。

 答えられなかった、のかもしれない。


 兄の姿。

 あの声。

 重なった手。


 それらは、夢だったのか。

 それとも――。

 看護師は、優しい声で続けた。


「夜中にガレージで倒れているところを、ご家族が見つけたそうです」


「……え?」


「バイクも、ガレージにありました。エンジンは止まっていて、特に異常はなかったと」


 美咲の胸が、嫌な音を立てた。


 森は。

 あの道は。


「……そんなに、走ってない、んですか」


「ええ。防犯カメラにも、外出の記録はありませんでした」


 説明は、整っていた。

 現実として、隙がない。


 美咲は、目を閉じた。


 だったら、あれは何だったのか。


 問いは、口に出さなかった。

 出した瞬間に、すべてが壊れてしまいそうだったから。


 病室の窓の外で、風が木を揺らしている。

 その音が、一瞬だけ、エンジン音に聞こえた。

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