第7章 森

 街の灯りが、少しずつ後方へ流れていく。


 気づいたときには、住宅の並びは途切れ、道幅が広くなっていた。アスファルトは続いているのに、周囲の気配が変わる。人の生活音が消え、代わりに、風と虫の声が支配的になる。


 美咲は、ハンドルを強く握った。


「……違う」


 小さく呟く。

 この道は、知らない。

 少なくとも、意識して選んだ覚えはない。


 ブレーキに力を込める。

 減速はする。だが、止まらない。


 バイクは、まるで「進むこと」を前提に組み立てられているかのように、自然な動きでカーブを描いていく。ハンドルを切る角度も、体重移動のタイミングも、考えるより先に決まっている。


 ――自分じゃない。


 そう思った瞬間、背中の重みが、はっきりとした輪郭を持った。


 誰かが、そこにいる。


 風圧ではない。

 振動でもない。


 体温のない、確かな存在感。


 美咲は、声を出そうとして、喉が張りついた。


 道の両脇に、木々が現れる。

 街路樹とは違う、無秩序な並び。枝は闇の中に溶け込み、どこまで続いているのか分からない。


 森だった。


 ヘッドライトが照らす範囲だけが、切り取られたように明るい。

 その外側は、深い黒だ。


「止まって……」


 声に出したつもりだったが、音になっていなかったかもしれない。


 メーターに視線を落とすと、数字がゆっくりと上がっている。

 意識していないのに、速度が増している。


 そのとき、背後から、囁くような声がした。


「まだだ」


 はっきりと聞こえた。

 夢の中の声と、同じだった。


「……お兄、ちゃん?」


 呼んだ瞬間、背中に触れていたものが、わずかに動いた。

 重みが、体に密着する。


 美咲は、振り返ろうとした。

 だが、首が動かない。


「前を見ろ」


 低く、静かな声。命令ではない。諭すようでもない。ただ、当然のことを告げるような調子だった。


 視界の先で、道が細くなっていく。舗装は続いているが、ひび割れが増え、落ち葉が積もっている。

 街から完全に切り離された場所。


 時間の感覚が、曖昧になる。


 どれくらい走ったのか分からない。

 分かるのは、戻れない、という感覚だけだった。


 突然、バイクが大きく揺れた。


 美咲は反射的にハンドルにしがみつく。

 地面が荒れている。小さな段差、見えない凹凸。


 制御が、効かなくなり始めていた。


「やめて……!」


 今度は、確かに声が出た。

 だが、背後の存在は、何も答えない。

 ただ、そこにいる。


 ヘッドライトの先に、開けた場所が見えた。

 木々が途切れ、土の匂いが濃くなる。


 その瞬間、美咲は悟った。


 ここは、現実の地図に載っていない。

 少なくとも、自分の知っている世界の延長ではない。


 バイクは、そこで大きく跳ねた。


 衝撃が、全身を打つ。

 視界が白く弾ける。


 次の瞬間、世界が傾いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る