第6章 試走
決めたのは、誰にも見られない時間だった。
夜の九時を少し回った頃。母は早めに寝室に入り、父はまだ帰宅していない。
家の中が静まり返ったのを確認してから、美咲は玄関を出た。
ガレージの前に立つと、胸の奥がひりつく。
逃げる理由はいくらでもあった。危険だ、非常識だ、家族に知られたらどうする。
それでも、美咲は鍵を取り出した。
シャッターが上がる音は、思った以上に大きく響いた。
夜気が流れ込み、埃の匂いが薄まる。
兄のバイクは、いつもと変わらない姿でそこにある。
メーターは暗く、あの言葉は表示されていない。
それが逆に、不安を煽った。
「……ちょっとだけ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
短い距離だけ。家の周りを一周するだけ。それ以上はしない。
自分に言い聞かせるための言葉だった。
跨ると、シートの感触が想像よりも馴染んだ。
兄の体重を受け止めてきた場所に、自分の身体が収まる。その事実に、妙な罪悪感を覚える。
キーを差し込み、回す。
一瞬の沈黙のあと、エンジンが応えた。
低く、落ち着いた音。
異音はない。振動も、正常だ。
拍子抜けするほど、何も起こらなかった。
クラッチを握り、ゆっくりと発進する。
ガレージを出た瞬間、夜の空気が一気に身体を包んだ。
走り出してすぐ、美咲は気づいた。
怖さよりも先に、軽さが来た。
風が頬を撫で、視界が広がる。
歩くよりも、車に乗るよりも、ずっと直接的に、世界と接している感覚。
――こういうことか。
兄が言っていた言葉の断片が、初めて意味を持った気がした。
速度は出していない。それでも、身体が前に引っ張られる感覚が心地いい。
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ剥がれていく。
恐怖は、消えたわけではなかった。
ただ、遠くに押しやられている。
交差点を一つ曲がり、住宅街を抜ける。
道は見慣れたはずなのに、どこか違って見えた。街灯の配置、影の落ち方、家々の距離感。
まるで、同じ場所を別の角度から見ているような。
そのとき、背中に、わずかな重みを感じた。
風のせいだ、とすぐに思った。
加速すれば、空気圧でそう感じることもある。
それでも、美咲は、意識的にミラーを見なかった。
見てしまえば、何かを確認してしまう気がした。
しばらく走ると、自然と速度が上がっていた。
意図したわけではない。アクセルを強く回した覚えもない。
それなのに、メーターの数字が、少しずつ増えていく。
「……あれ?」
美咲は、アクセルを緩めた。
だが、速度はすぐには落ちなかった。
一瞬の遅れ。
それだけのことのはずなのに、背筋が冷える。
バイクは、安定している。
不安定さはない。だからこそ、余計に不自然だった。
――走り続けることが、真実を知る鍵。
メーターの言葉が、頭をよぎる。
美咲は、歯を食いしばった。
これは、自分の意思だ。
そう言い聞かせながら、ブレーキに指をかける。
効く。
ちゃんと減速する。
それでも、バイクは、まるで次の道を知っているかのように、迷いなく進んでいく。
家の周りを一周するつもりだった。
気づけば、美咲は、いつも通らない道に入っていた。
街灯の数が減り、建物の間隔が広がる。
夜の闇が、少しずつ濃くなる。
美咲は、そこで初めて、はっきりとした不安を覚えた。
――戻ろう。
そう思った瞬間、バイクは、さらに前へ進んだ。
意志を持ったかのように。
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