第5章 刻まれた言葉
夢を見てから、数日が経った。
美咲は意識的に、ガレージから距離を取っていた。朝は早めに家を出て、夜は自室に直行する。シャッターの前を通るときも、視線を落としたまま足早に通り過ぎた。
それでも、夢の中の兄の声は消えなかった。
――走らないと、分からない。
ふとした瞬間に、その言葉が浮かぶ。歯を磨いているとき、電車を待っているとき、信号が変わるのを眺めているとき。
意味を考えようとすると、思考がそこで止まる。まるで、その先に踏み込むこと自体を拒まれているようだった。
異変に気づいたのは、週末の昼過ぎだった。
母に頼まれて、倉庫から脚立を出そうとしたとき、美咲はガレージの前で立ち止まった。
シャッターは閉じている。
それなのに、中から、かすかに光が漏れているように見えた。
錯覚だ、と最初は思った。
だが、目を凝らすと、確かにシャッターの隙間から、白い線のようなものが覗いている。
心臓が、嫌な音を立てた。
逃げることもできた。
見なかったことにする選択も、まだ残っていた。
それでも美咲は、シャッターに手をかけた。
あの夜、掃除をしたときと同じように、深く息を吸ってから、持ち上げる。
中は、いつもと変わらない。
埃の匂い、薄暗さ、静寂。
だが、バイクのメーターだけが、微かに光っていた。
電源は入れていない。
キーも差していない。
それなのに、メーターの表示部分が、淡く発光している。
美咲は、ゆっくりと近づいた。
一歩、また一歩。
表示を見た瞬間、息が止まった。
そこには、文字があった。
『走り続けることが
真実を知る鍵』
整った書体だった。機械のフォントに近い、感情を排した形。
刻まれている、という表現が一番近い。表示というより、最初からそこにあったかのように、違和感なく収まっている。
「……なに、これ」
声は震えていた。
誰かの悪戯だとは思えなかった。
こんなことをする理由も、方法も、思いつかない。
美咲は、指を伸ばしかけて、止めた。
触れた瞬間に、何かが変わってしまう気がした。
――走らないと、分からない。
夢の中の兄の声と、メーターの言葉が、ぴたりと重なる。
美咲は、後ずさった。
視線を逸らしても、文字の残像が網膜に焼き付いて離れない。
その日から、言葉は美咲の中に入り込んだ。
通勤中、車窓に映る自分の顔が、あの文字と重なる。
夜、目を閉じると、暗闇の中に白い文字だけが浮かぶ。
走り続けること。
真実。
鍵。
どれも、具体的な意味を持たないはずの言葉なのに、胸の奥を直接叩いてくる。
浩二は、何を知っていたのか。
何を、知ろうとしていたのか。
バイクは、何を求めているのか。
答えを考えるほど、美咲の中で、一つの可能性が形を持ち始める。
――走れば、分かるのかもしれない。
その考えに気づいた瞬間、美咲は、はっきりと恐怖を覚えた。
これは、自分の意思ではない。
そう思いたかった。
それでも、ガレージの奥で、バイクは静かに待っている。
まるで、その考えが浮かぶのを、最初から知っていたかのように。
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