第4章 夢

 その夜、美咲は久しぶりに夢を見た。


 眠りが浅かったのかもしれない。

 布団に入ってから何度も寝返りを打ち、目を閉じても、ガレージの光景が脳裏から離れなかった。埃の匂い、金属の冷たさ、あのわずかな振動。


 気づいたときには、夢の中にいた。


 場所は分からない。ただ、広い道だった。夜ではないが、昼とも言い切れない。空は曇っていて、影の輪郭がぼやけている。

 遠くから、エンジン音が聞こえた。


 懐かしい音だった。


 音は次第に近づき、やがて一台のバイクが姿を現した。

 兄のバイクだ、と美咲はすぐに分かった。色も形も、見慣れたものと同じだった。


 運転しているのは、浩二だった。


 ヘルメットは被っていない。事故のときの装備とも違う、昔の、まだ兄が無邪気だった頃の姿だ。

 バイクは美咲の前で止まり、エンジン音が静かに落ち着く。


「久しぶりだな」


 浩二は、いつもの調子でそう言った。

 懐かしさが先に来て、美咲は言葉を失った。


「……お兄ちゃん」


 声にすると、胸が締めつけられる。

 浩二は笑った。優しい笑顔だった。生きていた頃と変わらない。


「掃除、してくれたんだって?」


 なぜ分かるのか、という疑問は浮かばなかった。夢だからだ、とどこかで理解していた。

 美咲は、小さく頷いた。


「勝手に……ごめん」


「いいよ」


 浩二は、あっさりと答えた。


「ちゃんと、触ってくれたほうがいい」


 その言葉に、ほんのわずかな引っかかりを覚えた。

 触ってくれたほうがいい。

 まるで、放っておかれることを嫌がっているような言い方だった。


「……戻ってこないの?」


 気づけば、美咲はそう聞いていた。


 浩二は、すぐには答えなかった。

 少しだけ視線を逸らし、バイクのハンドルに手を置く。


「戻る、って何を?」


「……家に」


 浩二は困ったように笑った。


「もう、俺は走ってるからさ」


 意味が分からない。

 問い返そうとした瞬間、エンジン音が再び大きくなった。


「でも」


 浩二は、美咲を見た。


 その目が、ほんの一瞬だけ、暗く沈んだように見えた。


「走らないと、分からないこともある」


 次の瞬間、景色が歪んだ。

 地面が遠ざかり、風が強くなる。


 浩二は、いつの間にか美咲のすぐ後ろに座っていた。

 背中に、確かな重みが伝わる。


「……え?」


 声を出す暇もなく、バイクは走り出した。

 ハンドルを握っているのは、美咲だ。なのに、操作している感覚がない。


 進む方向も、速度も、決めていない。


「ちょっと……!」


 叫ぼうとした瞬間、視界が暗転した。


 美咲は、息を詰めたまま目を覚ました。


 部屋は暗く、時計の数字だけが赤く光っている。

 夜中の三時だった。


 背中が、妙に重い。

 寝汗が、じっとりと肌に張り付いている。


 夢だ。

 そう分かっているのに、胸の鼓動が収まらない。


 美咲は、しばらく布団の中で動けずにいた。

 兄の声、重み、言葉。


 ――走らないと、分からない。


 その一文だけが、異様に鮮明に残っていた。


 朝になっても、夢の感触は消えなかった。

 まるで、何かを渡されたまま、目覚めてしまったような感覚。


 美咲はその日、ガレージの方向を一度も見なかった。

 それでも、あの場所から、静かな視線を感じている気がしてならなかった。

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