第3章 掃除
それは、決意と呼べるほどのものではなかった。
ただ、このまま何もしないでいることに、耐えられなくなっただけだった。
見ないふりを続けることで、兄の死が片づいたことになるのなら、それはあまりにも簡単すぎる。美咲はそう感じていた。
夕方、母が買い物に出かけ、父がまだ帰ってこない時間帯を選んで、美咲はガレージの前に立った。
シャッターを上げる手は、思ったよりも重かった。
中は薄暗く、昼間でも電気をつけなければ輪郭が曖昧になる。
スイッチを押すと、蛍光灯が一瞬だけ瞬き、白い光が落ちた。
兄のバイクは、そこにあった。
事故から半年が経っているはずなのに、時間が経ったようには見えなかった。埃は積もっているが、放置された廃物という印象はない。むしろ、触れればすぐにでも動き出しそうな、張り詰めた感じがあった。
美咲は、軍手と古い布を持ってきていた。
工具箱にも手を伸ばしかけて、やめた。今日は分解や修理をするつもりはない。ただ、汚れを落とすだけだ。
最初に布で触れたとき、金属の冷たさが指先に伝わった。
思わず、肩に力が入る。
兄のものだった。
その事実が、急に具体性を帯びる。
タンクの側面には、細かな傷がいくつも残っていた。走行中についたものだろう。磨くと、それらが一つひとつ浮かび上がる。
美咲は、それを見ながら、初めて気づいた。
兄は、無傷の状態を目指していなかったのだ。
完璧に整えられた機械ではなく、使われ、削られ、積み重ねられた痕跡そのものを、大切にしていたのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
シートの下、ハンドル周り、メーター。
掃除を進めるうちに、兄の癖が次々と思い出される。ここは几帳面に、ここは雑に。締めすぎていたネジ、逆に緩めにしてあった部分。
「……らしいな」
思わず、声が漏れた。
そのときだった。
かすかな振動が、バイク全体を走った。
エンジンはかかっていない。キーも差していない。
それなのに、内部から低い音が響いたような気がした。
美咲は、動きを止めた。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
気のせいだ、と自分に言い聞かせて、作業を再開しようとした瞬間、今度はメーターの針が、ほんのわずかに揺れた。
ありえない。
美咲は一歩、後ずさった。
理屈では分かっている。古い機械なら、内部の反応で一時的に動くこともある。振動や温度差のせいかもしれない。
それでも、心臓の鼓動が早くなるのを止められなかった。
「……お兄ちゃん?」
名前を呼んでから、すぐに後悔した。
返事があるはずもない。
それなのに、ガレージの空気が、ほんの少しだけ重くなったように感じた。
美咲は、布を置いた。
今日はここまでだ。
シャッターを下ろす前、もう一度だけバイクを見る。
埃は減り、輪郭ははっきりした。それなのに、先ほどよりも遠い存在に見えた。
まるで、触れたことで、何かを起こしてしまったかのように。
シャッターが完全に閉まると、音が遮断される。
美咲は、その前でしばらく立ち尽くしていた。
あの振動は、何だったのか。
答えを出すには、まだ早すぎる。
ただ一つ確かなのは、
兄のバイクは、「物」として眠ってはいなかった、という感覚だけだった。
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