第2章 兄のバイク

 浩二が初めてバイクに乗った日のことを、美咲はよく覚えている。


 それは免許を取った直後の、春先のまだ風が冷たい日だった。兄はヘルメットを抱えて玄関に立ち、何か言いたそうにしてから、結局「行ってくる」とだけ告げて出ていった。

 その背中が、少しだけ遠くに見えた。


 帰ってきた兄は、やけに饒舌だった。

 エンジンの音がどうだとか、風の抜け方がどうだとか、言葉の半分以上は美咲には分からなかった。それでも兄は楽しそうで、途中からはもう説明というより、独り言に近かった。


「な、分かるだろ」


 そう言われて、美咲は曖昧に笑った。

 分かる、と言えなかった。

 けれど、分からないとも言えなかった。


 それが、兄とバイクの距離だった。


 浩二は、何かにつけてバイクの手入れをしていた。天気のいい休日、家族がテレビを見ている間も、ガレージに籠もっていることが多かった。磨き、調整し、時には部品を取り替え、時にはただ眺めているだけの日もあった。


 母はそれを「趣味」と呼んだ。

 父は「若い男だからな」と片づけた。


 美咲だけが、あれは趣味でも気晴らしでもないのだと、うすうす感じていた。

 兄は、バイクに乗っているときだけ、どこにも属していない顔をしていた。家族の中でも、職場でもない、名前のつかない場所に立っているような、そんな表情。


「危なくないの?」


 美咲がそう聞いたことがある。


 浩二は一瞬、困ったように笑ってから言った。


「危ないよ。だからいいんだ」


 意味は分からなかった。

 ただ、その言い方だけが、妙に胸に残った。


 事故の数日前、兄は珍しくバイクの話をしなかった。夕食の席でも、ガレージのシャッターは閉まったままだった。美咲は、そのことに気づきながら、何も言わなかった。


 今思えば、何か言うべきだったのかもしれない。

 だが、その「何か」が何なのか、美咲には分からなかった。


 事故の知らせを受けた日、警察から戻った父は、真っ先にガレージへ向かった。シャッターを開け、中を確認し、何も言わずに閉めた。その背中を、母と美咲は黙って見ていた。


 兄の身体は戻らなかったが、バイクは戻ってきた。

 傷はあったが、致命的ではなかった。修理すれば走る、と業者は言った。


 その言葉を聞いたとき、美咲は、なぜか息苦しくなった。


 走る。

 それは、兄の代わりに、という意味にも聞こえた。


 浩二がいなくなったあと、バイクは誰のものにもならなかった。

 父のものでも、母のものでも、美咲のものでもない。

 ただ、浩二のままで、そこにある。


 理解できなかったからこそ、触れられない。

 分からなかったからこそ、残ってしまった。


 ガレージの奥で、バイクは今も、音を立てずに待っている。

 何を待っているのかを、誰も確かめようとしないまま。

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