お兄ちゃんのバイク
霧標本
第1章 事故のあとに残ったもの
兄が死んだ日から、ガレージは時間を失った。
シャッターの向こう側だけが、あの日のまま止まっている。
美咲は何度もそう感じていた。家の中では季節が巡り、食事の時間が過ぎ、洗濯物が乾き、ニュースが更新されていくのに、ガレージだけは、浩二が最後にエンジンを切った瞬間で固まっているようだった。
事故は、よくあるものだった。
夜の国道、対向車線からのはみ出し、避けきれなかった衝突。警察も医者も、誰もが「不運だった」と言った。その言葉に、怒る理由も、否定する材料も、美咲にはなかった。ただ、その不運の中に、兄の名前が組み込まれてしまった事実だけが、どうしても現実として馴染まなかった。
葬儀が終わり、四十九日が過ぎ、兄の部屋は少しずつ片づけられていった。服は処分され、本は段ボールに詰められ、工具類は父の倉庫に移された。
だが、ガレージだけは違った。
母は「危ないから」と言った。
父は「今は触るな」と言った。
その結果、誰も何もしなかった。
シャッターを下ろしたままのガレージは、家の中で唯一、話題にしてはいけない場所になった。食卓で名前が出ることもない。ただ、視線だけが、誰ともなくその方向を避ける。そこに何があるのかを、全員が知っているからこそ。
兄のバイクは、そこにある。
美咲は免許を持っている。兄ほどではないが、運転も嫌いではなかった。それでも、あのバイクには一度も触れたことがない。跨ったことも、エンジンをかけたこともない。
それは恐怖というより、線だった。越えてはいけない境界のようなもの。
浩二にとって、バイクは特別だった。
ただの移動手段ではなく、逃げ場所であり、居場所であり、証明だった。家族が理解できないことを、彼自身も分かっていたのだろう。だからこそ、バイクの話をするとき、兄はいつも少しだけ言葉を選んでいた。
「危ないからな」
そう言って笑う兄の声が、今も美咲の耳に残っている。
事故から半年が経ったある夜、美咲は眠れずに布団を抜け出した。理由は分からない。ただ、胸の奥に溜まったままのものが、息をさせてくれなかった。
廊下を歩き、玄関を抜け、ガレージの前に立つ。
シャッターに手をかけた瞬間、美咲は一度、深く息を吸った。
中にあるのは、ただ物だ。
兄ではない。
そう自分に言い聞かせながら、シャッターを少しだけ持ち上げる。
隙間から流れ出た空気は、冷たく、油の匂いを含んでいた。
闇の中に、輪郭だけが浮かぶ。
兄のバイクは、確かにそこにあった。
まるで、今も走る準備を整えたまま、誰かを待っているように。
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