第4話 さよなら止める力

叩きつけられたスマートフォンがアスファルトの上で無残な音を立て、ひび割れた画面の隙間から雨水が侵入していく。あいつからの着信を示す青白い光が、数回、断末魔のように明滅し……そして、絶望的な静寂へと沈んだ。


「……あ」


 彼女の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。それは僕が数年間、一度も聞いたことのない、魂を削り取られるような震えだった。彼女は泥にまみれた地面に膝をつき、壊れた機械に指を伸ばそうとする。その指先が、僕ではなく、あいつとの「細い繋がり」を求めて彷徨っている。


 その光景が、僕の胸を、心臓を、鋭利な刃物で縦に割っていく。



「そんなに……そんなにがいいのか」


 僕は彼女の背中に覆い被さるようにして、再びその細い体を、壊さんばかりに抱きしめた。  ずぶ濡れのコートが重く絡み合い、二人の境界線が雨の中に溶けていく。


 歌詞のように、あいつに触れたその肌が、あいつの影を宿したその瞳が、僕を狂わせる。僕の知らない場所で、僕の知らない顔をして、あいつに微笑んでいた君を想像するだけで、視界は真っ赤に染まる。



「離して! お願い、もう、放っておいて!」


 彼女が僕の腕の中で激しく暴れる。その抵抗が、皮肉にも僕に「彼女が生きている」という実感を与えてしまった。  僕は彼女の髪に顔を埋め、雨の匂いに混じる、微かな彼女自身の香りを吸い込んだ。それは、僕がかつて愛した、幸福の匂いだ。



「本気で忘れるくらいなら、……君を壊してしまいたい」


 僕の口から出た言葉は、自分でも驚くほど低く、甘く、そして呪いに満ちていた。  さよならを止める力が僕にないのなら、せめて、この記憶ごと、この雨の中に二人で沈んでしまえばいい。誰の手にも届かない場所まで。




「健一、あなたの愛は……もう、愛じゃないわ。ただの、よ」


 彼女の言葉が、最後の一撃となって僕を貫いた。

  。 ああ、そうかもしれない。僕は彼女を自由に羽ばたかせる翼になりたかったはずなのに、いつの間にか、彼女の足首に泥を塗り込み、地を這わせる鎖になっていたのだ。


 抱きしめる腕の力を、ほんの少しだけ緩めた。  その瞬間、彼女は弾かれたように僕から離れ、冷たい雨の壁の向こう側へと駆け出していった。  振り返ることはなかった。


 僕が買い与えた靴が、雨の泥濘を蹴り、無慈悲な音を立てて遠ざかっていく。


 僕は、追いかけることができなかった。

 膝から崩れ落ち、泥水の中に両手をつく。  指の間を、冷たい雨が通り抜けていく。掴もうとしても、守ろうとしても、すべては指の隙間から零れ落ちていく。


 頭上からは、なおも暴力的なまでの雨が降り注いでいる。


 この雨がすべてを洗い流してくれるというのなら、どうか、僕のこの醜い執着も、君と笑い合った眩しすぎる記憶も、すべて消し去ってほしい。


 けれど、雨はただ、僕を冷たく打ち据えるだけだ。  頬を伝う液体が、空から降る雨なのか、それとも僕の目から溢れる、枯れることのない絶望なのか、もう判別がつかなかった。





「……行くな、行かないでくれ」


 誰もいなくなった路地裏で、僕の独白は雨音に掻き消される。  遠くで、どこかの街の灯りが滲んでいる。

 あいつの待つ場所へ、彼女は辿り着いたのだろうか。  僕の腕の感触を、忌まわしい記憶として振り払いながら、あいつの温もりに抱かれているのだろうか。


 僕は、泥濘の中に残された、壊れたスマートフォンの残骸を見つめ続けた。


 光を失った画面は、今の僕の心そのものだった。



 最後の雨が、僕たちの物語を、音もなく塗り潰していく。


 そこにはもう、愛も、憎しみも、救いもなかった。


 ただ、降り止まない雨の冷たさと、二度と戻らない体温の残滓だけが、永遠に僕を縛り続けていた。

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2026年1月10日 23:00

最後の雨に、僕は壊れる――綺麗な愛じゃなくていい 比絽斗 @motive038

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