第3話 壊れる世界
世界は、ひたすらに青黒い雨に塗り潰されていた。
アスファルトを叩く音は、もはや雨音ではなく、僕の鼓動を急かす断罪の調べのように聞こえる。
腕の中に閉じ込めた彼女の体は、雨に打たれすぎて、驚くほど冷たくなっていた。かつて、冬の公園で僕のコートのポケットに忍び込んできた、あの小さな手のひらの熱は、もうどこにもない。 僕が抱きしめれば抱きしめるほど、彼女は僕の腕の中で「石」になっていく。体温を通わせることを拒み、ただ物理的な存在としてそこに留まっているだけの、命を失った彫刻。
「……ねえ、健一。もう終わりなのよ」
彼女が漏らした声は、雨の壁に遮られて消え入りそうだったが、僕の耳にはどんな雷鳴よりも鋭く突き刺さった。 「終わり? 何が終わるんだよ。僕たちは何も始めてさえいないじゃないか。これからだろう? 二人でやり直すんだ。あの、海沿いの街に引っ越そうって話した時のように……」
「やめて」
遮る言葉に、一切の慈悲はなかった。 彼女はゆっくりと顔を上げ、僕を真正面から見据えた。その瞳に宿っているのは、僕への怒りですらない。ただひたすらに深い、底の知れない「諦念」だった。
「その言葉を聞くたびに、私は死にたくなる。あなたの優しさが、今はもう、首を絞める縄にしか感じられないの」
その瞬間だった。 僕たちの間に、異質な震えが走った。
震源は、彼女のコートのポケット。 バイブレーションの低く鈍い音が、雨音の隙間を縫って、僕の脳髄を直接揺さぶった。ジリジリと、執拗に。それはまるで、僕たちの聖域に土足で踏み込んでくる侵入者の足音だった。
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
その反応だけで十分だった。僕の知っている「友達」からの連絡なら、彼女はもっと無造作に、あるいは迷惑そうにするはずだ。だが、今の彼女が見せたのは、震える小鳥のような――あるいは、待ち焦がれた救いを求めるような、切実な動揺。
「出すな」
僕は彼女の肩を掴む手に力を込めた。
「……出しちゃだめだ。誰だか分かっている。あいつだろう? こんな雨の中、君をどこへ連れ出そうとしているんだ」
震えは止まらない。画面が光っているのか、ポケットの縁から漏れる青白い光が、降り注ぐ雨粒を不気味に照らし出している。
あいつだ。僕がどれだけ言葉を尽くしても届かない彼女の心の奥に、指先一つで、電子の信号一つで入り込んでくる、あの男だ。
僕は耐えきれず、彼女のポケットに手を突っ込み、そのスマートフォンを奪い取った。
「返して! 健一、何をするの!」
彼女の悲鳴に近い声。
濡れた画面に浮かび上がっていたのは、僕が最も恐れていた名前。苗字だけの、味気ない表示。しかしその三文字が、僕と彼女が積み上げてきた数年間の月日を、瞬時にして無価値なガラクタへと変えてしまった。
着信は途切れない。あいつは確信しているのだ。彼女が今、この雨の中で苦しんでいて、そして自分を待っていることを。
僕がどれだけ彼女を抱きしめても、彼女の「意識」は今、僕の腕をすり抜けて、この小さな光の箱の中へと吸い込まれている。
「……僕の、目の前で」
笑いが込み上げてきた。熱に浮かされたような、ひどく歪んだ笑いだ。
「僕の目の前で、あいつを呼ぶのか。僕がこんなに君を求めているのに、君は、その機械の向こう側にいる男に触れてほしいのか!」
「そうよ!」
彼女の叫びが、僕の思考を真っ白に染め上げた。
「そうなのよ! あの人は私を、あなたみたいに縛り付けたりしない。私を自由にしてくれる。あなたと一緒にいると、私は自分が、泥の中に埋まっていくような気がするの!」
泥。 ああ、そうか。僕が彼女に捧げてきた愛情は、彼女にとってはただの泥濘だったのか。 僕が必死に築き上げてきた幸福という名の城は、彼女にとっては息もできない監獄に過ぎなかったのか。
雨はもはや暴力となって僕たちを打ち据える。 手の中のスマートフォンが、再び震えた。二度目の着信。
それは、僕の世界が崩壊するカウントダウンの音だった。
僕は、震える手で、その冷たい機械をアスファルトに向かって叩きつけようとした。だが、それよりも早く、彼女が僕の腕に縋り付いてきた。 それは抱擁ではなく、奪還のための必死の抵抗。 その時、僕の視界の中で、彼女の頬を伝う「雨ではない雫」が、街灯の光を反射して美しく、そして残酷に輝いた。
――ああ、君はそんなにも、あいつのために泣けるのか。
僕のためにはもう一滴も流れないその涙が、僕の胸の奥に残っていた最後の「正気」という名の糸を、ぷつりと断ち切った。
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