第2話 泥濘

 雨脚は一段と強まり、周囲の景色を暴力的に削り取っていく。

 抱き寄せた彼女の肩越しに、遠くで滲む街灯の光が見えた。かつて、あの光の下で待ち合わせた日々が、今はもう別の銀河の出来事のように遠い。


 君のすべてを知ることが、愛なのだと信じていた。


 付き合い始めたばかりの頃の僕は、滑稽なほどに実直だった。君が何を考え、何に笑い、どんな些細なことに傷つくのか。そのすべてを把握し、君の世界の隅々まで僕の色で塗り潰すことが、守るということだと疑わなかった。  


 けれど、愛はいつしかという名の毒に形を変えた。  

 仕事が終わるのを駅の改札で待つ時間。君のスマートフォンの通知が鳴るたびに、僕の心臓は針で刺されたように跳ねた。


「誰から?」


「ただの友達だよ。そんなに不安にならないで」


 君は困ったように笑っていた。あの頃の苦笑いは、まだ僕への愛情を含んでいたはずだ。だが、その微笑みが少しずつ、薄氷はくひょうのように冷たく、脆いものに変わっていくのを、僕は止めることができなかった。  

 決定的な変化は、半年ほど前からだった。  君の口から、特定の男の名前が出るようになった。職場の同僚だという「」の名前が。


 最初は単なる愚痴の相手だったはずだ。それがいつしか、君の語る言葉の端々に、あいつの影が染み出し始めた。  君が新しく買った口紅。僕の好みではない、少し大人びた色。

 君がふとした瞬間に見せる、僕に向けたものではない、遠い眼差し。  

 僕は怯えていた。  君を奪い去るあいつの影に。自分の中に積み上がっていく、無力で醜い嫉妬に。  


「……ねえ、もう離して。苦しいわ」  


 雨の中で、君の声が僕の思考を引き戻した。  腕の中にいる君は、僕が知っている「僕の恋人」ではなかった。濡れた髪が頬を伝い、涙のようにしたたり落ちる。その雫さえ、僕の手を拒んでいるように見える。  


「離さない。……離したら、君はあいつのところへ行くだろう」


「…………」


「否定してくれ。頼む。あいつなんて何でもない、ただの迷いだったって、嘘でもいいから言ってくれよ!」  


 叫びは激しい雨音に吸い込まれ、どこにも届かずに消える。  君は答えなかった。ただ、痛ましそうに僕を見つめている。  


 僕を裏切った君のことさえ、憎めなくて。    それが、僕にとって最大の絶望だった。

 いっそこの場で君を激しく罵り、突き飛ばすことができれば、どれほど楽だったろう。だが、僕の指先は、君の肌に触れるたびに、かつての幸福な感触を思い出してしまう。  

 本降りになった雨が、僕たちの足元を泥濘へと変えていく。  逃げられない。君も、僕も。  

 僕は君の背中に回した手に、さらに力を込めた。

 たとえ君が、心の奥底であいつを呼んでいたとしても。この肉体が、この雨に打たれる冷たさが僕のものだけである限り、僕は君を離さない。  


 たとえ、綺麗な愛じゃなくても――。  

 僕は君の首筋に顔を埋めた。

 雨の匂いと、君の体温。

 その混ざり合う境界線で、僕の理性は音を立てて崩れ去ろうとしていた。


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