最後の雨に、僕は壊れる――綺麗な愛じゃなくていい

比絽斗

第1話 鉄色の雨

 その日の空は、午後を過ぎたあたりから不穏な鉛色に染まっていた。

 湿った風が路地を吹き抜け、古い街灯が弱々しく瞬き始める。もうすぐ雨が降る。それも、傘など役には立たないほどに激しいやつが。  

 駅前の雑踏から少し外れた、人影のまばらな歩道。

 僕の数歩前を歩く君の背中は、いつになく強張って見えた。薄いトレンチコートが風に煽られ、細い肩が露わになる。


「ねえ、……健一けんいちくん」


 君が立ち止まった。振り返ったその顔には、隠しようのない迷いと、そして、決別への冷徹な覚悟が同居していた。  

 僕は足を止める。心臓が嫌なリズムで跳ねた。  聞きたくない。その唇が開くのを、全力で阻止しなければならない。  


「……わかってる」

 僕は、君が口を開くより先に、声を絞り出した。


「わかってるんだ。君が最近、僕を見ていないことくらい。君の視線の先に、僕じゃないが立っていることも」


 君の瞳が大きく揺れた。

 あいつ。名前を呼ぶことさえおぞましい、君の新しい恋人。僕から君を奪い去ろうとしている、実体のない影。  


「……ごめんなさい。もう、嘘をき通すのは限界なの。私、あの人のことが――」


「やめろ」


 言葉が、刃物となって僕の胸を切り裂こうとする。  僕は反射的に手を伸ばしていた。

 君の細いあごすくい上げ、その柔らかな唇を、自分の親指で強く、潰すように塞いだ。  

「言わなくていい。……今は、何も」  

 指先から伝わる君の体温は、驚くほど冷えていた。  君は拒絶するように顔を背けた。その瞬間、空が割れた。  

 ポツリ、と頬を叩いた雫が、一瞬のうちに無数の銀色のアローとなって降り注ぐ。

 本降りだった。  

 視界が白く濁る。街の喧騒は雨音に塗り潰され、僕たちの周りには透明な壁が立ち上がった。まるで、この雨に閉じ込められた二人だけのおりのようだ。


「激しいね……」


 君が小さく呟く。雨に濡れた髪が頬に張り付き、その痛々しいほどの美しさが、僕の中の黒い感情を逆なでした。

 

 本気で忘れるくらいなら、怖くはなかったのだ。  いっそこの記憶ごと消えてしまえばいい。けれど、僕の意識は、君との思い出の一つ一つを鮮明に、残酷なほど克明に呼び覚ます。    君を壊したい。  

 唐突に湧き上がったその衝動は、僕の喉元までせり上がってきた。  他の誰かの手に渡るくらいなら、いっそこの雨の中で、木っ端微塵こっぱみじんに砕いてしまえたら。そうすれば、君は永遠に僕だけの記憶の中で、綺麗なまま生き続けるのではないか。  


「行かないでくれ」


 僕は君の肩を掴み、力任せに引き寄せた。  雨に濡れたコートが嫌な音を立てて密着する。君の体は、ひどく小刻みに震えていた。それが寒さのせいなのか、僕への恐怖のせいなのか、今の僕には判別がつかない。  


 ただ、この腕の中の感触だけが、今の僕に残された唯一の現実だった。

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