第4話 編集者の倫理
夜の森は、
静かすぎた。
風が枝を揺らす音も、
獣の気配も、
どこか
抑え込まれている。
まるで、
世界が
こちらの様子を
窺っているようだった。
◆
焚き火を囲み、
俺とリリアは
言葉少なに
座っていた。
彼女は、
炎を見つめながら、
何度も
自分の胸を
確かめている。
《治癒》
その文字は、
揺らがない。
だが、
それが逆に、
不安を
煽っていた。
直した文章は、
本当に
正しかったのか。
◆
「……もし」
リリアが、
ぽつりと
口を開いた。
「また、
書き換えたら」
その先を、
言わなかった。
だが、
意味は
伝わる。
俺は、
焚き火に
小枝を
放り込みながら、
答えた。
「簡単には
できない」
事実だ。
頭痛は、
編集のたびに
強くなる。
視界の
文字のずれも、
元に
戻らない。
制限は、
確実に
存在していた。
◆
俺は、
自分の
スキル文書を
見た。
《観測者》
その下に、
かすれた
追記が
浮かんでいる。
――編集履歴。
俺にしか
見えない、
世界からの
警告文。
一行。
また一行。
書き換えるほど、
余白は
削れていく。
無限では
ない。
俺の力は、
消耗品だ。
◆
さらに、
もう一つ。
俺は、
気づいていた。
自分自身の
スキル文書には、
触れない。
どれだけ
意識を
集中しても、
編集の感触が
返ってこない。
自己改変は、
禁則。
世界は、
そこだけは
絶対に
許さない。
◆
――なら、
どこまで
許される。
その境界を、
俺は
探り始めていた。
焚き火の向こうで、
小動物が
怪我をしているのが
見えた。
俺は、
一瞬だけ、
迷う。
そして、
リリアに
視線を向けた。
「……やるか」
彼女は、
小さく
頷いた。
◆
治癒は、
成功した。
問題は、
その後だ。
森の空気が、
一瞬、
濁った。
文字が、
宙に
溢れかけ、
すぐに
沈んでいく。
因果の
過剰補正。
小さな行為でも、
積み重なれば、
世界は
歪む。
◆
俺は、
理解した。
善意だけでは、
足りない。
正しさだけでも、
足りない。
編集には、
基準が
必要だ。
衝動で
直せば、
世界が
壊れる。
ならば――
◆
「書き換えるのは、
三つだけだ」
俺は、
自分に
言い聞かせるように
呟いた。
「本人の
意思があること」
「その文章が、
明確な
欠陥であること」
「書き換えた
結果を、
俺が
引き受けられること」
曖昧だ。
だが、
それで
いい。
神の
法ではない。
編集者の
倫理だ。
◆
リリアは、
静かに
聞いていた。
そして、
少し考えてから、
言った。
「……それでも、
怖い?」
俺は、
即答できなかった。
怖い。
世界に
睨まれている
感覚は、
消えない。
だが。
「怖いから、
考える」
それが、
俺の
答えだった。
◆
翌日、
俺たちは
街道に出た。
人の
行き交う道。
つまり、
文章の
密集地帯。
頭痛が、
一段
強まる。
それでも、
歩みは
止めない。
逃げ続ければ、
何も
残らない。
◆
道中、
負傷した
商人と
出会った。
彼は、
治癒を
求めなかった。
「運が
悪かっただけだ」
そう言って、
歯を
食いしばる。
俺は、
彼の
スキル文書を
見る。
《痛覚増幅》
戦場で
生き残るための
代償。
欠陥ではない。
本人が
選んだ、
文章だ。
俺は、
何もしなかった。
◆
その夜、
頭痛は
少しだけ
軽かった。
世界が、
わずかに
静まった
気がした。
全部は
直せない。
直すべきで
ないものも
ある。
それでも。
俺は、
この力を
捨てない。
誤字を
見つけて
しまった以上、
目を
逸らすことは
できない。
◆
焚き火の前で、
俺は
静かに
呟く。
これは、
英雄の物語では
ない。
救世主の
話でも
ない。
文章に
触れてしまった
編集者が、
自分なりの
ルールを
作りながら、
世界と
折り合いを
つけていく。
ただ、
それだけの
物語だ。
だが――
世界にとっては、
それこそが、
最も
危険な
異端だった。
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