第2話 最初の改変


 世界が軋んだ、

その感覚は、

ほんの一瞬だった。


 耳鳴りのようでもあり、

紙を無理に

引き裂いた音にも

似ていた。


 だが、

誰も周囲は

気づいていない。


 市場は相変わらず

騒がしく、

人々は値段交渉に

声を荒げている。


 俺と、

目の前の少女だけが、

その違和感の中心に

立っていた。


   ◆


 少女は

鎖に繋がれていた。


 手首と足首。

錆びた金属が

食い込み、

皮膚は赤く

腫れている。


 年は、

十にも満たない

だろう。


 俺が声をかけると、

彼女はびくりと

肩を震わせ、

視線を落としたまま

小さく身を縮めた。


 慣れている。


 殴られることも、

怒鳴られることも、

値踏みされることも。


 胸の奥に浮かぶ

スキル文書が、

それを雄弁に

物語っていた。


《微弱治癒

 ※成功率10%

 ※失敗時、

 使用者に反動》


 治せない治癒。


 癒やすたびに、

自分が傷つく。


 それでも、

「役に立つ」と

判断されたから、

生かされている。


 文章として、

あまりにも

残酷だった。


   ◆


「名前は」


 俺が聞くと、

少女は一瞬、

言葉を探すように

唇を噛んだ。


「……リリア」


 絞り出すような声。


 それだけで、

十分だった。


 俺は、

彼女のスキル文書から

視線を離さない。


 頭が痛む。


 文字が、

にじんで見える。


 行間が、

波打っている。


 触れるなと、

世界が

警告している。


 それでも。


 俺は、

空中に浮かぶ

文字へ、

そっと意識を伸ばした。


   ◆


 ――触れた。


 正確には、

触れたような

錯覚だった。


 だが、

確かに、

感触がある。


 ざらついた

紙の表面。


 古いインクの

匂い。


 俺は、

問題の一文を

見つめる。


《※成功率10%》


 この一行が、

すべてを

歪めている。


 成功と失敗を

前提にした

治癒。


 そんなものは、

力ではない。


 欠陥だ。


 俺は、

呼吸を整え、

心の中で

線を引いた。


 削除。


 その瞬間、

頭を殴られたような

痛みが走る。


 視界が、

白く弾けた。


   ◆


 気づくと、

俺は膝をついていた。


 吐き気が込み上げ、

喉が焼ける。


 だが、

視線は自然と、

彼女へ向かう。


 リリアの

スキル文書が、

書き換わっていた。


《治癒》


 それだけ。


 余計な注釈も、

確率も、

反動もない。


 簡潔で、

まっすぐな

一語。


 俺は、

思わず

笑ってしまった。


 ……文章は、

こうであるべきだ。


   ◆


「おじさんが

 倒れた」


 リリアの声で、

我に返る。


 振り向くと、

近くで揉めていた

男が、

地面に倒れていた。


 どうやら、

転倒した拍子に

頭を打ったらしい。


 周囲が

ざわつく。


 誰かが

治癒を使えと

叫ぶ。


 視線が、

リリアに集まる。


 彼女は、

怯えたように

俺を見た。


 俺は、

小さく頷く。


「……やってみろ」


 リリアは、

唇を震わせながら、

倒れた男に

手を伸ばした。


 光は、

派手ではなかった。


 だが、

確かに、

傷は塞がっていく。


 反動も、

ない。


 失敗も、

ない。


 完全な治癒。


   ◆


 沈黙が落ちた。


 次いで、

歓声。


「すごい……」

「こんな力、

 聞いたことがない」


 だが、

俺の耳には、

その声は

遠く聞こえていた。


 頭痛が、

さらに強くなる。


 世界が、

微妙に、

ずれて見える。


 やってしまった。


 後戻りは、

できない。


 この一行の編集が、

どんな波紋を

生むのか。


 まだ、

わからない。


   ◆


 リリアは、

俺の袖を

掴んだ。


「……ありがとう」


 その言葉が、

胸に刺さる。


 感謝される資格など、

俺にはない。


 俺は、

神でも、

救世主でもない。


 ただ、

文章を

いじっただけだ。


 それでも。


 彼女のスキル文書は、

確かに、

正しくなった。


 俺は、

初めて理解する。


 この力は、

祝福ではない。


 罰でもない。


 ――選択だ。


 そして、

選んだ以上、

責任が生じる。


 俺は、

静かに息を吐いた。


 編集者として、

最初の一行を

書き換えたのだと、

自覚しながら。


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