第肆頁 所詮は人間
熱狂も、フラッシュの残像も、羽虫のようなドローンの駆動音も、すべて夜の帳に吸い込まれて消えた。
あんなに騒がしかった野次馬たちは、朧月の他部隊によって「安全」という名の不可侵領域へと追いやられ、俺のすべてだった日向も、保護という名目で車に押し込められた。
残されたのは、鼻を突くゴミの腐臭と、湿ったコンクリートが放つ冷気。そして、つい数分前まで「この世の神」を演じていた男二人と、泥にまみれた俺だけだ。
「……っ、……はぁ、はっ……」
不意に、重厚な静寂を切り裂いて、ひどく剥き出しの呼吸音が響いた。
それまで、定規で引いたように一点の曇りもなく背筋を伸ばしていた誠人の体が、糸の切れた操り人形みたいにガクンと折れる。
「誠人! ……おい、しっかりしろ!」
隣にいた永礼が、焦燥に突き動かされるようにして、その細い肩を抱き止めた。
石畳に膝をつき、高潔な軍服を泥で汚しながら、誠人は自分の胸元を掻き毟るようにして、激しく咽び始めた。
「……ぅ、あ、が…………っ、げほっ!!」
それは、ただ、ひどく無様に、胃の中身をぶちまける「人間」の音だった。
蒼い炎に焼かれた少年から生み出される、清浄な灰の代わりに。誠人が吐き出したのは、どろりとした生々しい嘔吐物だ。
ついさっきまでカメラの前で見せていた、あの彫刻のような美貌はどこにもない。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、肺をひっくり返すような勢いで、こいつは「命を奪った感触」を必死に拒絶し続けていた。
「……おい、大丈夫かよ」
思わず声をかけた俺の言葉に、永礼が弾かれたようにこちらを振り返る。
その瞳には、さっきまでの死人のような静寂はなく、一人の友人を本気で案じる、剥き出しの動揺が張り付いていた。
「……すまない、不二! 自販機で水を買ってきてくれ! なるべく冷たいやつだ、急げ!!」
永礼が俺の苗字を荒っぽく叫ぶ。
その声に背中を押されるようにして、俺は錆びついた思考を無理やり駆動させ、路地裏を飛び出した。
すぐ近くの角に、安っぽい蛍光灯をチカチカと明滅させている自販機があった。
財布を出す余裕なんてない。俺はポケットに残っていた数枚の小銭を、震える指で投入口に放り込み、一番端にあるミネラルウォーターのボタンを叩きつけた。
ガコン、と。情緒のない無機質な音が夜に響く。
取り出したペットボトルの、指先を凍らせるような冷たさが、先ほどまで落魔に蝕まれていた俺の感覚に、異様なほど現実的な手触りを連れ戻した。
「……神様も、吐くんだな」
誰にともなく呟いた言葉が、白い息となって闇に溶ける。
冷たいペットボトルを握りしめ、俺は、化けの皮が剥がれ落ちた彼らの待つ、あの暗い路地裏へと引き返した。
◇
「……ほら」
「さんきゅ、ほら誠人。飲め。」
差し出したペットボトルを、永礼が受け取りキャップを開けると、誠人の震える口元へゆっくりと運んだ。
誠人は震える手でそれを支え、喉を鳴らして水を流し込む。何度か深く呼吸を繰り返し、口元を拭った彼は、ようやく顔を上げる。
そこには、テレビ画面越しに見ていた傲慢な救世主の面影は、微塵もなかった。
「……情けないところ見せたね。ゴメン」
ふわりと、年相応の……いや、もしかしたら俺よりも少し年上なだけの青年らしい、柔らかな苦笑。
あまりにも無防備なその表情に、俺は毒気を抜かれ、行き場を失った言葉をどうにか絞り出した。
「いや……なんて言うか、その……あんたみたいな奴でも、吐くんだな」
「んははっ、さっきも言ったけど、僕も所詮はただの人間だからね。――見世物のように人を殺すのは、いつまで経っても慣れないよ」
誠人は自嘲気味に笑い、空になったペットボトルを愛おしそうに見つめた。
その言葉が、俺の胸の奥に刺さっていた氷を、音を立てて溶かしていく。
冷淡に落魔を焼いた男。「この国の神様」という椅子にふんぞり返り、不幸な奴らを「処理」する側だと思っていた男。
けれど、こいつは俺と同じだった。
落魔を、単なる現象や怪物として見ていない。
あそこにいた少年を、最後まで『人間』として見送っていたからこそ、その重みに耐えきれず、胃の底から拒絶がせり上がったのだ。
……クソ。やっぱり、こいつは気に食わない。
こんな顔を見せられたら、もう、ただの「クソ野郎」として憎み続けることができなくなる。
「とりあえず、事務所行こうぜ。……不二、誠人に肩貸してやってくれ。俺は道具を回収してくる」
永礼が、散らばったランタンや刀を拾い上げながら、背越しにそう言った。
「は……? なんで俺が」
「いいから。……こいつ、こう見えて意外とデカいんだよ。俺一人じゃ腰をやられる」
「……あー、もう。分かったよ」
俺は舌打ちを一つ。
それでも、地面に座り込んだままの誠人の脇に腕を差し入れ、その細い――けれど確かに血の通った、熱い体躯を引き起こす。
「ごめんね、不二くん。助かるよ」
「……黙って歩け。あと、夜鷹でいい」
肩にかかる重みは、想像していたよりもずっと重かった。
それは、彼が背負わされている「神様」という名の虚像の重さなのかもしれない。
俺は、自分の中の落魔が、この温かい重みに反応しないよう、奥歯を強く噛みしめた。
「行こう。……僕たちと、一緒に。」
誠人の微かな呟きと共に、俺たちは一歩を踏み出す。
街灯の届かない路地裏を抜け、夜の喧騒へと。
神に見捨てられ、神に見初められ、神を裏切った。
それでもなお「人間」を辞められない三人の影が、橙色の光の下で、一つに重なった。
朧月落魔奇譚 あぽろのすけ @apo_n_su
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