第参頁 愛しいあの子を守るためなら
「馬鹿な……。人間として飲み込まれずに、落魔の『核』を逆に封じ込めたというのかい……?」
誠人は呆然と俺を見つめ、それから、こみ上げてくる戦慄を抑え込むように顔を覆った。
その言葉を鼻で笑い飛ばしてやった。
勝った。
俺は、あの泥のような絶望に飲み込まれなかった。
安堵が全身の細胞に広がり、張り詰めていた緊張が、陽炎のように解けていく。
「おにーちゃん……!」
しがみついていた日向が、顔を上げて俺を見た。
涙でぐしゃくしゃの、愛しい顔。
俺は、その小さな体をもう一度強く、壊さないように抱きしめた。
「怖がらせて、悪かったな、日向。もう大丈夫だ。……ほら、帰って親子丼作らねーと」
その、時だった。
「……っ!?」
抱きしめた日向の体温が、唐突に、『極上の馳走』の匂いを発した。
鼓膜を突き破るような心臓の音。
鼻腔を貫くのは、血の通った柔らかな肉の香り。
先程まで感じていた妹の愛おしさは、一瞬にして、理性を焼き切るほどの強烈な「食欲」へと塗り替えられた。
(なんだ……? これ、……)
視界がどろりと赤く濁る。
日向の細い首筋に流れる脈動が、ドクン、ドクンと、俺の脳髄を直接叩く。空っぽになった胃袋が、内側から爪で引き裂かれるような、暴力的な空腹。
「あ……が…………っ」
喉の奥から、勝手に涎が溢れた。
「愛している」と伝えるはずの口が、その柔らかい喉笛に噛みつき、温かい鮮血を啜るために歪もうとする。
抱きしめる腕に、無意識に力がこもった。
それは守るための抱擁ではない。
肉食動物が獲物を捕らえた時のそれに近い。
「おにーちゃん……? いた、いよ……」
日向の小さな悲鳴。
その声さえ、俺の脳内では「美味そうな鳴き声」として変換されていく。
(やめろ……。やめろやめろやめろ!!)
俺は必死に、自分の右手を左手で掴み、妹の体から引き剥がした。そのまま、這いずるようにして日向から距離を取る。
「……来るな、兄ちゃんから離れろ……!!」
俺の叫びは、もはや人間の言葉ではなかった。
肺を焼くような呼吸のたびに、周囲にいる誠人や、野次馬たちの「魂」が、芳醇な香りを放って俺を誘惑する。
この世界のすべてが、俺の飢えを癒やすための「餌」にしか見えない。
「……少年、まさか……」
誠人の顔から色が消える。
彼は、俺の瞳に宿ったのが「意志」ではなく、剥き出しの「欲望」であることに気づいたのだ。
再び、ランタンの蒼い火が揺らめく。
「落魔の衝動か……!」
「う、あああああああ!!」
俺は、地面のコンクリートに拳を叩きつけた。
爪が剥がれ、血が滲む。その痛みさえ、一瞬の麻痺にすぎない。
すぐ隣に、最高に甘くて柔らかい、俺が世界で一番守りたかった「命」がある。
それを食えば、楽になれる。
それを壊せば、この乾きは癒える。
(死んでも……堕ちてやるもんかよ……ッ!!)
俺は、自らの舌を思い切り噛み切った。
溢れ出す鉄の味。自分の血の熱さ。
その激痛を
だが、限界だった。
視界の端で、日向が泣きながら駆け寄ってこようとするのが見える。
「来んな!! ぁ……こい、くるな……くるなくるな!」
食ってしまう。このままだと、俺は。
理性が切れかけたその時。
不意に目に入ったのは、地面に転がっている日本刀。
――これだ。
迷わずそれを手に取り自分の首筋に構える。
日向を置いていく訳には行かない、でも。
日向をこの手で殺すくらいなら、俺が、俺自身が。
その時。
視界を塞ぐように、一人の影が割り込んだ。
無機質な、鉄の匂い。
それまで感じていた、狂おしいほどの「生命の香り」を一切放たない、静謐な『無』。
「……刀を下ろせ。大丈夫だ。」
目の前に差し出されたのは、革張りの手袋に覆われた、永礼の腕だった。
「…………ぁ?」
戸惑う間もなく、永礼は俺の顎を強引に掴み、自らの腕を口元へ押し込んだ。
そのまま思い切り噛み締めると、口の中に広がったのは、血の熱さではなかった。
冷たい、凍てつくような静寂の味。
「……っ……は、あ……」
それは、毒には毒をと言わんばかりの、強烈な拒絶反応だった。
永礼の体には、俺が求めていた「生」がない。
まるで歩く死体のような。魂を使い果たした、美しい欠落。
俺の中の化け物が、その「死」の味に触れ、不快そうに胃の奥へと縮こまっていく。
「…………、………………」
数秒後。
俺の視界から、赤黒い濁りが引いていった。
日向を「餌」としか見られなかった狂気の霧が、嘘のように晴れていく。
「……落ち着いたか?」
永礼の声は、どこまでも平坦だった。腕を噛まれたというのに、眉一つ動かしていない。
俺は、永礼の腕を口から離し、力なく地面に突っ伏した。
口の周りは、俺自身の返り血と、永礼の服の繊維で汚れていた。
「……あぁ。……悪かった。」
「気にするな」
永礼は、破れた手袋を気にする様子もなく、腰の刀を鞘に収めた。
「……少年。君は君自身の中に落魔を封じ込めた。でもその代償に、君の中を巣食う落魔は永遠に『生』を欲する。」
誠人が、俺を見下ろしながら告げる。
その瞳には、先程までの慈悲は消え、冷徹な色が宿っていた。
「放っておけば、君は数時間以内に、その愛しい妹を自分の手で食い千切り、啜り尽くすことになる。……君自身の意志とは無関係にね」
誠人は、泣きじゃくる日向を、俺に触れさせないように部下に預けさせた。
「……っ、ふざけんな……。俺は、そんなこと……!」
「するよ、絶対に。僕が断言する。」
誠人が、俺の前に手を差し出す。
「俺たちのところに来い、
「僕たちが、君の『それ』を御する方法を教えよう。君の
「……っ」
俺は、自分の震える手を見つめた。
この手は、さっきまで、日向の喉笛を求めていた。
俺が、俺であり続けるために。あいつを食い殺さないために。
「……分かったよ。……行ってやるよ、どこにでも」
俺は、永礼の貸してくれた冷たい手を借りて、ふらふらと立ち上がった。
遠くで、日向が俺を呼んでいる。
その声が今はまだ、甘い果実の匂いを孕んで聞こえ、思わず耳を塞ぎたくなる。
(……地獄だな。ここは)
「……でも先にこいつ……供養してからにしようぜ」
横たわる、落魔に飲み込まれた「人間だったもの」。
いや、一人の少年。
見開かれたままの、白く濁った瞳をそっと閉じてやれば、血の匂いを含んだ生暖かい風が、弔いのように頬を撫でた。
「そうだね。彼は灰にならず、綺麗なまま亡くなっている。このまま担当を呼んで、きちんとした形でご遺族に会わせてあげよう」
真っ二つに分かたれた少年の骸に、ふわりと羽織が被せられた。誠人が、自らの黒い狩衣の上着をかけていたのだ。
軍服だけとなった彼。それを見つめる瞳は、先程までの凍てつくような冷徹さは消え、後悔を滲ませた一人の青年のものだった。
「……あんた、なんなんだよ」
「……ただの人間だよ。僕はね」
テレビやネットの喧騒の中で、その姿は嫌というほど目にしてきた。
『この国の神様』
その傲慢な称号は、主にこいつのために用意されたものだ。
朧月のエースであり、この街を、この歪んだ世界を落魔から救うための救世主。
それが、神代 誠人という男。
画面の中のこいつは、どこか冷めた瞳をした、人間を辞めた神様気取りの気に食わない奴だった。
なのに、今目の前にいる男は、ひどく人間臭く、あまりにも無防備な普通の青年に見えた。
この奇妙な出会いが、俺の人生という物語を根底から変えてしまうなんて。この時の俺は、まだ知る由もなかった。
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