第弐頁 人間でありたいと願うその意志が

「――標的を確認。処理を開始する」



男の声が響くと同時に、頭上で羽虫のような不快な駆動音が鳴り渡った。


見上げれば、複数台のドローンが、獲物を見つけた猛禽のように俺たちを包囲していた。

無機質なレンズの群れが、夕闇の中で赤く点滅し、この路地裏を『スタジオ』へと変貌させていく。


――いつもテレビ越しにみている中継だ。


パリン、と。

鼓膜の奥で、薄氷が踏み砕かれるような硬質な音が響く。

刹那、俺の網膜は暴力的なまでの蒼に塗りつぶされた。


男が掲げたランタン――その芯に宿る蒼い炎が、夕闇の静寂を焼き払い、世界の『表皮』を無慈悲に剥ぎ取っていく。光が触れた箇所から、見慣れた路地の色彩が、まるで古びた壁紙のように剥落していった。



「……は? ちょ、ちょっとまてよ! 待てって!」



目の前にいたヤツの形が崩れていく。

制服の繊維が溶け、背中から突き出した歪な腕が、腐敗した花のように不気味に開花する。


それはもう、俺と同じ学び舎にいた「誰か」の残影ですらなかった。魂を使い古された燃料のように燃やし尽くし、ただの亡骸を苗床にして育った、醜悪な『落魔』という名の怪物だ。


ドローンが放つ強烈なフラッシュが、そのおぞましい変貌を、一瞬一瞬、鮮やかに切り取っていく。

画面の向こう側でこれを見ている「観客」たちが、安全な場所で歓喜に沸く姿が透けて見えるようで、猛烈な吐き気が込み上げた。


ヤツは俺の拘束を逃れるように這い出し、連中との距離を測るように、闇の奥へと後退った。



永礼ながれ、見えたかい? 三時方向だ。……焼け。」



男の指示は、先ほどまでの冷徹な響きとは異なり、どこか不自然なほど清廉に響いた。

それは、マイクの向こう側の国民に聴かせるための、録音された聖歌のような――完璧な『救世主の声』。


男は、カメラが捉える角度を計算しているかのように、優雅にランタンを掲げ直す。

その横顔は、彫刻のように美しく、そして死人のように生気がなかった。



「了解。――瞬きするなよ、誠人まこと。」



茶髪の男――永礼が低く、嘲るように吐き捨てた。

眼帯で覆われた彼の左目は蒼い炎に覆われ、空気を乾かす。


次の瞬間、俺の視界で軍服の影が爆ぜた。

物理法則をあざ笑うような加速で、湿った石畳を蹴り上げる。


抜刀。


鞘を滑り抜かれた日本刀の刃に、ランタンと眼帯から分かれた蒼い炎が、飢えた獣のように絡みつく。


一閃。

ニ閃。

いや、三閃だったか。


永礼のガタイの良い体躯は、瞬きよりも短い合間に、落魔の喉元へと滑り込んでいた。


まずは腕を、次いで四肢を。

蒼い炎の軌跡が、存在の根源を断ち切るように空を切り裂く。


落魔がその存在の不条理を叫ぶ暇さえ与えず、刀を横一文字に薙いだ。炎の帯が夜の帷を切り裂き、怪物の胴体を、絶望的なまでに鮮やかに両断する。



「や、めろよ。やめろよ!! そいつ! さっき!」



――泣いてたんだぞ。

喉元までせり上がったその言葉は、鉄のような味をさせて消えた。


これはテレビの向こう側にある、華やかな英雄譚などではない。徹底的に効率化された、無機質なまでの作業。


一人の人間が歩んできた時間を、ただのバグとして消去する、残酷な救済。


ああ、やっぱりこいつらは、吐き気がするほどクソだ。



「――まだ動くのかよ!」



両断されたはずの肉塊が、重力に抗って跳ねた。

砕かれた断面から、心臓を模したような、どろりと濁った黒い『核』が弾け飛ぶ。


器という名の死体を捨て去った落魔が選んだのは、隣り合う新たな器。地面に這いつくばる俺の、恐怖に凍りついた喉奥に狙いを定めていた。



「しまっ――! 伏せろ! 少年!」



男の悲鳴が届くよりも、黒い泥の跳躍の方が速かった。喉の奥に、沸騰した鉛を流し込まれたような衝撃が走る。



「っ、ごほっ、がぁああ…! あああああああ!!」



激痛。否、それは「痛み」という概念をゆうに通り越している。血管の隅々にまで火を放たれ、神経の一本一本を針で縫い合わされるような、耐え難い不快感。


脊椎から脳みそへ。

数千人分もの絶望的な呪詛が、腐ったヘドロのように流れ込んでくる。


『――死ね、明け渡せ。空っぽの器よ』


意識の輪郭が、黒い泥に侵食され、塗りつぶされていく。

俺という人間の中に、異物が土足で踏み入り、荒らしていくのが分かった。



(ふざ……けんな……ッ!)



理性の端っこで、俺は必死に自我を繋ぎ止める。

落魔だか何だか知らねえが、勝手に他人の人生を終点に導くんじゃねえ。


脳裏を過ったのは、あの日の、光を失った廊下の情景。


落魔に喰らわれ、人の形を維持できなくなっていった、両親の虚ろな瞳。あの時、俺の指の間からこぼれ落ちた、守りたかった温もり。


(また……あんな思いを、あいつにさせるのかよ……!)


世界でたった一人の、可愛い妹。

俺がここで化け物になれば、あいつは本当の孤独に突き落とされる。



「や……!! おにーちゃん! おにーちゃん!」


「ダメだ! 下がって!!」



両親を奪われ、その挙げ句に兄貴まで奪われるなんて、そんな地獄をあいつ味わわせるわけにはいかない。


こんなところで、くたばれるわけがない。

身を委ねれば楽になれるという誘惑を、俺のエゴが食い破る。


たとえどんなに無様な泥にまみれても、俺は、人間としてここに居なければならない。


地べたを這ってでも、生きていなければならないんだ。


侵入しようとする落魔の悪意を、俺自身の『生きたい』という、呪いにも似た執着が噛み砕き、文字通り、落魔を飲み込んでいく。



「負けて、たまるか……。――俺は、俺だ……ッ!!」



俺の体温が沸点を超え、全身の毛穴から、生命の火花のような蒼い蒸気が噴き出した。


やがて。

街を震わせていた不協和音が止み、しん、とした冷たい静寂が降りてきた。


膝をつき、肺を焼くような呼吸を繰り返す俺の元へ、三つの影が駆け寄る。



「おにーちゃん!!」


「危ないから近づかないで! だれか! ドローンを止めろ!」


「……少年。すまない、俺の責任だ」



男の声が、微かに震えていた。

その瞳に宿るのは、救世主の慈悲ではない。

守りきれなかったことへの絶望と、これから執行しなければならない「処置」への、冷酷な覚悟。


彼は、震える指先で再び腰の剣に手をかけた。

日向を抱き寄せ守る彼もまた、苦渋に満ちた表情で、俺から視線を逸らした。


ああ、そうか。

この人たちは今から、俺という『落魔』を殺すつもりなんだ。


そう悟った瞬間、乾いた喉から、ひりついた言葉がこぼれ落ちた。



「……勝手に殺そうとすんなよ」


「「!?」」



二人の動きが、文字通り石化したように止まる。

俺は震える右手で、駆け寄ってきた妹の小さな頭を、愛おしさを込めて胸元へ抱き寄せた。



「……にーちゃん、ちゃんと生きてんぞ。だから泣くな、可愛い顔がぶちゃいくになんぞ」


「…………は?」



男――誠人が、間の抜けた声を漏らした。

永礼に至っては、鞘に納めようとした刀を地面へと落としている。



「え、生き……? いや、しかし今のは確実に……心臓はどうなっている!?」


「超元気だ。……あと、さっきのドロドロしたやつ、なんか俺の腹の中で大人しくなった。……ちょっと、重たいけど問題ねぇ」



誠人が慌てて駆け寄り、俺の手首を乱暴に掴み、胸元に耳を押し当てた。脈拍は、驚くほど力強い。体温は異常に高いが、確かな拍動を維持している。


そして何より、俺の瞳の奥に宿る光は、落魔の濁った闇ではなく


――不敵なまでに輝く、人間としての意志そのものだった。

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