第壱幕 朧の夜に灯る生命

第壱頁 それは確かに誰かの大切な『人間』だった

「――卵も特売価格で買えたし、鶏肉もよし。……今夜は親子丼だな」



世界がどろりと濁った橙に沈んでいく。

この時間の商店街は、安売りの喧騒と排気ガスが混じり合い、肺の奥をざらつくような心地が走る。


手のひらに食い込むビニール袋の重みだけが、俺をこの薄っぺらな日常に繋ぎ止めていた。


校則を無視して染め上げた髪を、湿った風が雑に撫でていく。

ピアスホールを通る風が、微かな痛みと共に「お前はここに馴染めていない」と囁いているみたいでどこか気持ちが悪い。


それでも、腕にぶら下げた数食分の安寧を、俺は手放すわけにはいかなかった。



「おにーちゃん、おそーい!」



鼓膜を弾いたのは、その不協和音をかき消す、あまりに無垢な声。

視線の先、夕闇を跳ねるようにして、日向ひなたが小さな影を揺らしていた。

幼稚園の制服が、まだ夜を知らない幼い体躯を包んでいる。



「わりぃ、わりぃ。ほら、行くぞ」



差し出された幼い頭を、わざと乱暴に、けれど壊れ物を扱うように撫でる。

繋いだ手のひらに伝わる体温が、俺の荒んだ輪郭を少しだけ柔らかく溶かした。



「おにーちゃん、今日はパパとママのところいく?」


「もう遅いし、明日だな」


「はーい。……あ! おにーちゃん見て!」



日向が指差した先。

夕映えを切り裂くようにして現れた黒塗りの車が、鏡のような光沢を放っている。

そこから降り立つ、威圧的な純白の狩衣と軍服を掛け合わせた制服の群れ。


民衆の熱狂的な視線を吸い込みながら歩く真っ白な軍団の中心にいた、1人だけ違う黒を纏う男。



一瞬、視線が絡み合った。



(こいつ……どこかで……)


「テレビでみたことあるおにーさんだ!」



ああ、そうだ。ニュースやネット記事で見たんだ。

傲慢なまでの「正義」を瞳に宿したその男の姿に、胃の裏が焼けつくような感覚を覚える。



「朧月か」


「おぼろつき?」


「悪いおばけをやっつけてくれる人達だよ。」



悪いおばけ……落魔らくま


かつて俺の日常を、父母という俺たちの世界の守護者を奪い去った、呪われた存在。

遺産を漁る卑しいハイエナのような親族から逃れ、妹の手だけを引いてこの土地へ流れ着いたあの日。


俺の時計は、あの絶望の夜から半分止まったままだ。



「あれがいるってことは、近くに落魔が出たんだろ。早く帰るぞ」



日向の、あまりに小さな手をもう一度握りしめる。

その柔らかい骨の感触が、俺に誓わせる。


父母が最後に遺したこの命だけは、何があっても、守り抜いてみせる。


住宅街へと続く、光の届かない歩き慣れた裏路地へと足を踏み入れた。





そんな日常も呆気なく崩れ落ちた。

異変は、大気の振動となって容赦なく肌を刺してくる。



「……あ、が…………あ、あああああ!」



鼻を突くのは、古い油が腐り果てたような、生理的な拒絶感を呼び起こす悪臭。


路地の暗がりに蹲っていたのは、かつてはどこかにいたはずの、俺と同じ制服を着た少年だった。

だが、その背中からは骨を軋ませ、肉を裂いて、歪な『腕』が数本、産声のように生えている。


ぐちゃ、という、粘り気を含む湿った音が響き、少年の首が不自然に、真後ろへと回転した。

白目は濁り、口元からはどす黒い粘液が糸を引いている。


それはもはや人間という機能を放棄した、落魔に飲み込まれた肉の成れの果てだ。



「まじ……かよ。……日向、後ろに下がってろ」



食材の詰まった袋を、まるで祈るように地面に置く。

代わりに手に取ったのは、壁際に転がっていた錆びた鉄パイプ。

冷たい鉄の感触は不思議とどこか既視感が芽生えたが、今はそんな事気にする余裕はない。



恐怖で震えそうな指先を静かに握りしめた。



「近付くな。それ以上こっちに来たらぶん殴る……!」


「ひっ……! おにーちゃ、!」



日向の短い悲鳴が、湿ったコンクリートに反響する。

次の瞬間、落魔が視界から消えた。

重力を無視した跳躍。


生物としての格差に膝が笑う。だが、退くという選択肢は俺の辞書から消え失せていた。

守らなければ、後ろにいる小さな命を。



「正気に……戻れよ! お前!!」



迫る異形の腕を、鉄パイプが辛うじて受け止める。

火花は散らない。代わりに、吐き気を催すような黒い粘液が俺を汚す。



「このままだと朧月に殺されんぞ!! いいのか!」



喉が焼けるような叫びと共に、無我夢中で鉄を振るう。

泥臭く、無様に、コンクリートを這い回りながら。

呼吸をするたびに肺が熱い。


俺は、かつて人間だったはずのその肉塊に、必死で「生」の重みを叩き込み続けた。


だが、暴力的なまでの力差。

俺の体はいとも簡単に壁へと叩きつけられた。


手からこぼれる鉄パイプ。

落魔の鋭い爪が、俺の頸動脈を断ち切ろうとした、その刹那。



「――おにーちゃん!!」



日向が、震える指でポーチを掴んでいた。

引き抜かれたピン。



ピィィィィィィィィィィッ!!!



耳をつんざくような、高音。

妖魔の動きが、僅かに歪んだ。

その一瞬の空白を、俺は生存本能だけで掴み取る。



「よくやった! 日向!」



心臓の鼓動を爆発させ、弾丸のようにその異形へとタックルを仕掛けた。

地面に圧しつけ、その醜悪な顔を睨みつける。



「あんた、こんなところで終わっていいのかよ。叶えたい夢とか、全部、このままだと朧月に奪われちまうんだぞ!」


「あんたみたいに! 飲み込まれた人間をゴミとしか見ない連中に! 殺されんだぞ! 正気に戻れ、戻れよ!!」



胸倉を掴む拳が、情けなく震える。

届くはずがない。一度飲み込まれた魂が戻ることなど、あり得るはずがない。


それでも、俺は知っている。

この網膜に、痛いくらい焼き付いているんだ。


『……あ、いしてる……に、ゲて……はや、く……』


あの夜、異形と化しながらも、俺たちを逃がそうとした両親の姿が。あの時確かに、両親は正気を取り戻していた。


組み敷いたヤツの白濁の瞳から、黒い滴が零れ落ちる。

それが生物学的な分泌物なのか、あるいは最期の尊厳なのかは分からない。けれど、その体から殺意が霧散したことだけは、確かに感じ取れた。



「……これは、どういう状況だい?」



夕闇を不自然に切り裂いて、冷ややかな蒼い光が路地に差し込む。

 

こちらへ歩み寄る、二つの影。

一人は、無造作な茶髪を揺らした眼帯を付けた男。

そしてその隣で、俺を検品するように見つめる彫刻のような顔立ちの男。


その瞳には、見覚えがあった。



「……あぁ、神様のお出ましですか。……遅いんだよ、無能ども」



俺の瞳の中で、蒼い憎悪が蒸気となって噴き出す。

それは救世主への感謝などではない。


この不条理な世界を支配する彼らへの、明確な宣戦布告だった。

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