第3話 雪の中で差し伸べられた手

目が覚めると、そこは天国だった。

ふかふかとした雲の上に寝転がっているような感覚。

頬に触れるシーツは上質なシルクで、鼻をくすぐるのはほのかなハーブの香り。

温かい。芯まで凍えるような寒さが嘘のように、身体中がポカポカとしている。


(……私、死んだのかしら)


あの雪の中で意識を失って、そのまま召されたに違いない。

だって、こんなに心地よい場所が現実にあるはずがないもの。実家の屋根裏部屋の、藁を詰めただけのベッドとは雲泥の差だ。


『あ、アリアが起きた!』

『起きた起きた!』

『ねえねえ、お腹すいてない?』


聞き慣れた賑やかな声がして、私はぱちりと目を開けた。

視界に飛び込んできたのは、高い天井に描かれた美しいフレスコ画と、私の顔を覗き込む色とりどりの小さな精霊たち。


「……みんな。ここは?」


身体を起こそうとして、自分が豪奢な天蓋付きのベッドに寝かされていることに気づく。

部屋は広く、重厚な家具で統一されていた。暖炉では薪が赤々と燃え、部屋全体を暖めている。

窓の外を見ると、吹雪は止んでいたが、一面の銀世界が広がっていた。


『お城だよ! 氷のお城!』

『あの黒い人間が運んでくれたんだよ』

『すっごく怖かったけど、アリアのこと大事に抱っこしてたよ』


黒い人間。

その言葉で、途切れていた記憶が一気に蘇った。

キングウルフのブレス、私の前に現れた黒騎士の集団、そして冷たい瞳をした美しい公爵。

ヴァルド・フォン・アイスバーグ。

氷の公爵と呼ばれる彼が、私を助けてくれたのだ。


「私、生きてる……」


ほっと息をついた瞬間、ドアが控えめにノックされた。

「失礼いたします」

入ってきたのは、髪をきっちりと結い上げた年配の女性だった。黒いドレスに白いエプロン。どうやらメイド長のようだ。

彼女は私が起き上がっているのを見て、少しだけ目を見張ったが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。


「お目覚めになられましたか。丸二日も眠っておいででしたので、旦那様が心配なさっておられましたよ」

「二日も……!? あの、申し訳ありません、ご迷惑を……」

「とんでもない。貴女様は、私たちの領地に物資を運んでくれていた商隊を、命がけで守ってくださった恩人です。これくらいのおもてなしは当然ですよ」


彼女の手には、湯気の立つスープと焼きたてのパンが載ったトレイがあった。

サイドテーブルにそれを置くと、彼女は優しく私の背中をさすってくれた。


「私はこの屋敷でメイド長をしております、マーサと申します。まずは何かお腹に入れられますか? お着替えや入浴は、体力が戻ってからで構いませんので」

「ありがとうございます、マーサさん。いただきます」


勧められるままにスープを口にする。野菜と肉の旨味が溶け込んだポタージュが、空っぽの胃に染み渡るように美味しかった。

食べながら、私は現状を整理する。

ここは北の辺境、アイスバーグ公爵家の屋敷。

私は商隊と共に保護され、手厚い看護を受けていた。商隊の人々も無事だという話を聞いて、心から安堵する。


「あの、公爵様は……」

「旦那様なら執務室にいらっしゃいます。貴女様がお目覚めになったら知らせるようにと仰せつかっておりますが、いかがなさいますか?」

「……ご挨拶させてください。お礼も申し上げたいですし」


それに、確認したいことがあった。

あの時、公爵の背後に見えた巨大な氷の精霊のこと。

そして、彼が私に問いかけた「何者だ」という言葉の答え。


食事を終え、マーサさんが用意してくれた清潔なドレスに着替えた私は、執務室へと案内された。

ドレスはシンプルな紺色のものだったが、生地が良く、私の肌によく馴染んだ。鏡に映った自分は、眼鏡がないせいか少し心細げに見えたが、精霊たちが『可愛いよ!』『似合う似合う!』と褒めてくれるので、少し勇気が湧いた。


重厚な扉の前で、マーサさんが立ち止まる。

「旦那様、お客様をお連れしました」

「入れ」


中から聞こえたのは、あの時と同じ、低く響くバリトンの声だった。

扉が開かれる。

私は深呼吸をして、一歩足を踏み入れた。


執務室は、まるで氷の洞窟のように静謐な空気に満ちていた。

壁一面の本棚、大きな執務机、そして窓際に置かれたソファ。

机の向こうで書類に目を通していた公爵が、顔を上げてこちらを見た。


息を呑むような美貌だ。

漆黒の髪は窓からの光を吸い込むように艶やかで、アイスブルーの瞳は宝石よりも澄んでいる。

ただ、その表情はやはり、氷像のように硬く、冷たい。


「……目が覚めたか」

「はい。この度は、命を救っていただき、さらには温かいおもてなしまで……本当にありがとうございます。ヴァルド公爵様」


私はカーテシーをして感謝を伝えた。

公爵は羽ペンを置き、立ち上がる。その長身に圧倒されそうになる。

彼は机を回り込んで私の近くまで来ると、じっと私を見下ろした。

その視線の鋭さに、心臓が早鐘を打つ。


「礼には及ばない。領内で起きた魔獣被害に対処するのは領主の義務だ。……それよりも」


彼は言葉を切り、少しだけ躊躇うように視線を彷徨わせた。

そして、意を決したように私を見据える。


「お前、名は?」

「……アリアと申します」

「家名は?」

「……今の私には、ありません」


実家から除籍されたのだ。名乗るべき家名はもうない。

正直に答えると、公爵は眉をひそめた。


「訳ありか。……まあいい。それよりも、確認したいことがある」


公爵が一歩、私に近づく。

室内の温度がふわりと下がった気がした。


「あの時……意識を失う寸前、お前は妙なことを言ったな」

「妙なこと、ですか?」

「ああ。『後ろの大きな氷の人が寒くないのか』と」


公爵の瞳が、探るように細められる。

「あれは、どういう意味だ?」


私は視線を彼の背後に向けた。

そこには、やはりいた。

天井に届きそうなほど巨大な、半透明の氷の巨人。王冠のような角を生やした威厳ある姿で、今は腕を組んで公爵を見守っている。

そしてその巨人の周りにも、無数の氷の精霊たちが漂っている。


この部屋が寒いのは、公爵が冷気を放っているからではない。

彼に惹かれて集まった強力な氷の精霊たちが、所狭しとひしめいているからだ。


「……見えますか、公爵様」

「私には何も見えない。だが、気配だけは感じる。常に何かが私の周りに纏わりつき、重圧をかけ、冷気を撒き散らしている感覚がな」


公爵は忌々しげに自分の手を見つめた。


「私は生まれつき、異常なほどの魔力を持っている。その魔力が暴走しないように制御するだけで精一杯だ。だが、その魔力に引き寄せられて、得体の知れない『何か』が集まってくる。そのせいで私の周りは常に凍りつき、人は恐れて近づかない」


彼は自嘲気味に笑った。

「『氷の公爵』とはよく言ったものだ。心まで凍りついた化け物だと、皆が噂している」


『失礼な! ボクたちはヴァルドが好きなだけなのに!』

『そうだよ、魔力が美味しいからそばにいるだけだもん』

『ヴァルドを守ってるんだぞー!』


精霊たちがぷりぷりと怒って騒ぎ出す。

そして、背後の氷の巨人も、困ったように眉を下げていた。


『……我々は、主(あるじ)を守護しているつもりなのだがな。どうにも力が強すぎて、主を苦しめているようだ』


巨人の声が、直接頭に響く。

この巨人は、ただの精霊ではない。おそらく、この地の気候さえも左右する高位精霊、あるいは精霊王の眷属クラスだ。

公爵の魔力が強すぎて、彼らを引き寄せ、無自覚に契約状態に近い繋がりを持ってしまっているのだ。けれど意思疎通ができていないため、公爵にとっては「制御不能な重荷」でしかない。


「……化け物なんかじゃありません」


私は自然とそう口にしていた。

公爵が驚いて私を見る。


「彼らは、貴方様を愛しているだけです。貴方様の魔力が綺麗で、心地よいから、そばにいたいだけなんです」

「愛している……? この、見えない重圧が、か?」

「はい。……少し、失礼します」


私は勇気を出して、公爵の手を取った。

ひやりと冷たい。彼の手は、ずっと冷え切っていたのだろう。

私が触れると、公爵はびくりと肩を震わせたが、振り払おうとはしなかった。


「皆さん、少し落ち着いて。公爵様が寒がっています。もう少し離れて、魔力を抑えてあげて」


私は部屋中に漂う精霊たちに語りかけた。

私の声に、精霊たちが反応する。


『えー、でもくっつきたいー』

『アリアが言うなら仕方ないか』

『ちょっと離れるよ』


ざあっと、潮が引くように冷気が和らいだ。

氷の巨人も、申し訳なさそうに一歩後ろへ下がる。

すると、どうだろう。

部屋の空気が一気に軽くなり、公爵の顔色が少し良くなった。


「……重みが、消えた? 寒気も……」


公爵は信じられないという顔で、自分の身体を見回した。

そして、繋がれたままの私の手を見る。

私の手から伝わる熱が、彼の冷たい指先を温めていた。


「お前は……精霊使いか」

「はい。……出来損ないですが」

「出来損ない?」


公爵は怪訝な顔をした。

「キングウルフのブレスを防ぎ、私にしか感じ取れない『彼ら』を従わせた。それのどこが出来損ないだ?」

「えっと……王都では、そう言われていましたので。精霊が見えるなんて嘘つきだと」


私は苦笑いをして、視線を落とした。

「でも、公爵様のお役に立てたなら嬉しいです。彼ら――精霊たちは、貴方様のことが大好きみたいですよ。特に後ろの大きな方は、貴方様を守ろうとして、ついつい力を入れすぎちゃうみたいです」


私がそう伝えると、公爵は虚空を見つめ、どこか照れくさそうに、そして安堵したように息を吐いた。


「そうか。……私はずっと、呪われているのだと思っていた」

「呪いではありません。祝福です。貴方様は、誰よりも愛されています」


私の言葉に、公爵の瞳が揺れた。

氷のような瞳の奥に、柔らかな光が灯る。

彼は私の手を握り返してきた。その力は強く、熱を帯びていた。


「アリア。……お前は、行くあてがないと言ったな」

「はい。……王都を追放され、実家からも縁を切られました」


隠すことでもない。私はありのままを告げた。

「着の身着のままで飛び出して、北の果てでひっそりと暮らそうかと……」


「ならば」


公爵が、私の言葉を遮った。

彼は真剣な眼差しで、私を真っ直ぐに見つめた。


「ここにいろ」

「……え?」

「私の屋敷で暮らせ。いや、暮らしてほしい」


公爵は言葉を選びながら、必死に訴えかけてきた。

冷徹で無口だと思われていた彼が、今はまるで迷子を見つけた少年のような顔をしている。


「お前が必要だ。私の暴走しがちな魔力を制御するためにも、そして何より……」


彼は言葉を詰まらせ、ほんのりと耳を赤くした。

そして、咳払いを一つして、居住まいを正す。


「お前が言ったのだぞ。私が綺麗だと」


「……へ?」

私は間の抜けた声を上げてしまった。

あれ、私、そんなこと言ったっけ?

記憶を辿る。意識を失う寸前、彼を見上げて……。


『あなた、すごく……綺麗、な……』


言った!

精霊の魂の色を指して言ったつもりだったけれど、これではまるで愛の告白ではないか!

顔から火が出るかと思った。


「あ、あれは、その、魔力の色が綺麗だと……!」

「魔力だけか?」

「いえ、その、お顔ももちろんお綺麗ですが、そうではなくて!」


慌てふためく私を見て、公爵の口元が微かに緩んだ。

それは、氷が解けて春の水が流れるような、見たこともないほど優しい微笑みだった。


「どちらでもいい。アリア、お前が私を恐れず、私のこの力すら受け入れてくれるというのなら」


彼は私の手を取り、その甲に恭しく口づけを落とした。

触れた唇の熱さに、心臓が跳ねる。


「私のそばにいてくれ。悪いようにはしない。衣食住は全て保証するし、誰にも文句は言わせない」


それは、あまりにも魅力的な提案だった。

行くあてのない私に、居場所をくれるという。

それに、この屋敷は精霊たちにとっても居心地が良い。彼にとっても、私がいた方が精霊との意思疎通ができて都合が良いはずだ。

利害は一致している。


……けれど、それ以上に。

雪の中で私を抱き上げてくれた、この不器用で孤独な男性を、放っておけないと思ってしまった。


「……私でよろしければ」


私が頷くと、公爵は安堵したように目を細めた。

「ありがとう。……私のことはヴァルドと呼んでくれ。アリア」


「はい、ヴァルド様」


こうして、私は「氷の公爵」の屋敷に居候することになった。

地味で可愛げがないと捨てられた私が、最強の精霊使いとして、そして公爵様の特別な存在として生きていく日々が、ここから始まったのだ。


しかし、この時の私はまだ知らなかった。

ヴァルド様が、私の想像を遥かに超えるほど「過保護」で「独占欲が強い」旦那様に変貌することを。

そして、私が去った王都が、精霊の怒りを買って壊滅的な状況に陥り、元婚約者たちが血眼になって私を探し始めることを。


平穏なスローライフ?

どうやら、それはもう少し先の話になりそうだ。


続く

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