第2話 精霊の声が聞こえるのは、私だけですか?

王都を出てから三日が過ぎた。

普通なら、ドレス一枚で冬の街道を歩けば、半日と持たずに凍死していただろう。

けれど私は、不思議なほど元気だった。


「くしゅん」


小さくくしゃみをすると、すぐに赤い火の粉のような精霊たちが私の鼻先に集まってくる。


『アリア、寒い? もっと燃えようか?』

『ボクが髪の毛に入って温めてあげる!』

『じゃあ私は背中! 背中に張り付くわ!』


火の精霊サラマンダーの幼生たちが、カイロのように私の体にくっついてくる。彼らは熱を発しているけれど、私の服や髪を燃やすことはない。私に最適な温度を調節してくれているのだ。

おかげで、周りは一面の雪景色だというのに、私の体感温度は春の陽だまりの中にいるようだった。


「ありがとう、みんな。でも無理しないでね。あなたたちの魔力がなくなっちゃう」

『平気平気! アリアの魔力が美味しいから!』

『そうそう、アリアのそばにいるだけで元気が湧いてくるの!』


精霊たちはキャッキャと笑いながら私の周りを飛び回る。

そう、私はどうやら、精霊にとって「居心地の良い場所」であるらしい。

私の魔力は、精霊たちを引き寄せ、彼らに力を与える性質があるそうだ。昔、こっそり屋敷の図書室で読んだ古い文献にそう書いてあった。「精霊の愛し子」と呼ばれる存在だと。

妹のミラが自称していた称号だが、皮肉なことに、その本物は泥だらけになって街道を歩いている私の方だった。


食事に関しては、土と木の精霊が助けてくれた。

『こっちこっち! 雪の下に甘い根っこがあるよ!』

『この木の実、リスさんが隠したやつだけど、アリアにあげる!』

彼らが見つけてくれる冬の野草や木木の実は、驚くほど滋味深く、空腹を満たしてくれた。水分は雪の精霊が綺麗な水を作ってくれる。


宿に関しては、風の精霊が落ち葉を集めて寝床を作り、夜の間は光の精霊が魔獣避けの結界を張ってくれた。

誰にも頼らず、屋根もない旅路。

それなのに、実家の屋根裏部屋で凍えながら眠っていた日々よりも、ずっと快適で、温かかった。


「……自由って、こういうことなのね」


誰も私を罵らない。

「可愛げがない」と蔑まれることもない。

「妹のために尽くせ」と強制されることもない。

あるのは、どこまでも続く白い雪原と、澄み渡る青い空、そして愉快な精霊たちだけ。


私は雪を踏みしめながら、北へ北へと歩を進めた。

精霊たちがしきりに「北へ行こう」と言うからだ。

彼らは何かを知っているようだった。あるいは、単に私の体質に惹かれて、北の強力な精霊たちが呼んでいるのかもしれない。


『ねえアリア、そろそろ人間の乗り物に乗らない?』

『あっちから馬車が来るよ!』


風の精霊シルフィが、私の耳元で囁いた。

言われて街道の先を見ると、確かに遠くから商隊らしき馬車の列がやってくるのが見えた。

王都から北の辺境へ向かう行商人だろうか。


「でも、お金がないし……」

『大丈夫、隠れて乗ればいいのよ』

『風で気配を消してあげる!』

『僕が御者さんの目をそらすから!』


精霊たちは悪戯っ子のように瞳を輝かせている。

私は少し躊躇したが、やはり徒歩だけで北の最果て、アイスバーグ公爵領まで行くのは無理がある。公爵領までは馬車でも一週間はかかる距離だ。


「……じゃあ、少しだけお邪魔しましょうか」


私は精霊たちの手引きで、荷馬車の最後尾、幌の隙間に滑り込んだ。

そこには毛皮や布地が積まれており、ふかふかと温かかった。

商隊の人々は、誰も私の存在に気づかなかった。風の精霊が私の音と匂いを完全に遮断し、光の精霊が私の姿を景色に溶け込ませていたからだ。

これは高等な認識阻害の魔法に近い。それを無詠唱で、しかも精霊たちが勝手にやってくれるのだから、宮廷魔導師が見たら卒倒するに違いない。


馬車に揺られながら、私はいつしか微睡みの中に落ちていった。



「おい、起きろ! 大変だ!」


精霊の焦った声で目を覚ました時、辺りの様子は一変していた。

馬車が激しく揺れている。いや、止まっているのに振動しているのだ。

外からは怒号と悲鳴、そして何かがぶつかる鈍い音が聞こえる。


「な、何事?」

『魔獣よ! 魔獣が出たの!』

『ホワイトウルフの群れだ! いっぱいいる!』


私は幌の隙間からそっと外を覗いた。

商隊は雪深い森の中を通る街道で立ち往生していた。

周囲を取り囲むのは、白い毛並みを持つ巨大な狼たち。ホワイトウルフだ。通常は群れで行動し、旅人を襲う危険な魔獣。

商隊の護衛たちが剣や槍を構えて応戦しているが、狼たちの動きは素早く、すでに数人が負傷しているようだった。


「ひ、ひいいっ! 荷物は置いて逃げろ!」

「無理だ、囲まれている!」


商人の悲鳴が響く。

このままでは全滅してしまう。

私は咄嗟に荷台から飛び降りようとした。


『だめよアリア! アリアが出ていっても食べられちゃうだけ!』

『そうだよ、逃げよう! ボクらがアリアだけは守ってあげるから!』


精霊たちが必死に止める。

確かに、私には剣の心得も攻撃魔法の知識もない。出て行ったところで足手まといになるだけだ。

彼らの言う通り、精霊の力を借りて自分だけ逃げることは可能だろう。

でも。


(……この人たちの馬車に乗せてもらったおかげで、ここまで来られたのよ)


勝手に乗り込んだとはいえ、彼らが運んでくれた恩はある。

それに、目の前で人が襲われているのを見捨てるなんて、私にはできなかった。

かつて、妹のミラが転んで泣いていた時、いじわるな継母が風邪をひいた時、私はいつだって手を差し伸べてきた。その結果が「お節介」「偽善者」と罵られることであっても、私の性分は変えられない。


「お願い、みんな。あの人たちを助けてあげて!」


私は心の中で強く念じた。

私の魔力に反応して、周囲の精霊たちが一斉にざわめく。


『えー、人間なんてどうでもいいのに』

『アリアが言うなら仕方ないなあ』

『わかった! ちょっとだけだよ!』


精霊たちはぶつくさ言いながらも、私の願いを聞き入れてくれた。

次の瞬間、戦場に異変が起きた。


護衛の剣士に飛びかかろうとしたホワイトウルフの足元の雪が、突然つるりと滑りやすくなったのだ。

「ギャンッ!?」

体勢を崩した狼は、そのまま木に激突した。氷の精霊の仕業だ。


別の場所では、商人に噛み付こうとした狼の鼻先に、突然突風が吹き付けた。

「キャンッ!」

驚いた狼が怯んだ隙に、護衛が槍を突き出す。


さらに、土の精霊が地面を僅かに隆起させ、狼たちの連携を乱す。火の精霊が焚き火の炎を大きく燃え上がらせ、獣たちを威嚇する。

目に見えない何かが味方をしている。

その奇妙な状況に、商隊の人々も戸惑いながら、しかし好機と見て反撃に出た。


「今だ! 押し返せ!」

「なんだかわからんが、風向きが変わったぞ!」


よし、このままいけば撃退できる。

そう思った矢先だった。


森の奥から、空気を震わせるような低い唸り声が響いた。

これまでのホワイトウルフとは比べ物にならない、巨大な影が現れる。

体高は馬よりも大きく、その瞳は血のように赤い。群れのボス、キングウルフだ。

その圧倒的な威圧感に、護衛たちの顔色が青ざめる。


「ば、化け物だ……!」

「あんなの勝てるわけが……」


キングウルフが大きく息を吸い込む。

その口元に、冷気が収束していくのが見えた。氷のブレスだ。あれを放たれたら、商隊は一瞬で氷像になってしまう。


(させない!)


私は考えるよりも先に、荷台から飛び出していた。

雪の上に着地し、キングウルフと商隊の間に割って入る。

私の姿を見て、商人も護衛も目を剥いた。

「な、なんだあの娘は!?」

「どこから出てきた!?」


私は両手を広げ、キングウルフを睨みつけた。

怖い。足が震える。

でも、精霊たちが私の周りに集まってくれている。


『アリア、危ない!』

『防御結界! 全開!』


無数の光の精霊が私の前に集結し、幾重もの光の壁を作り出す。

直後、キングウルフの口から凄まじい吹雪の奔流が放たれた。

ゴオオオオオッ!

全てを凍らせる白い吐息が、私に向かって押し寄せる。


光の壁とブレスが衝突し、眩い閃光が弾けた。

衝撃が私を襲う。

「うぐっ……!」

精霊たちが守ってくれているとはいえ、衝撃までは消せない。私の体は後方へ吹き飛ばされ、雪の上に転がった。


しかし、ブレスは防ぎきった。

商隊の人々は無事だ。

キングウルフは自分の最強の攻撃が防がれたことに驚き、警戒するように低く唸っている。


私はふらりと立ち上がった。

眼鏡がずれて、どこかへ飛んでいってしまったようだ。視界が少しぼやける。

魔力を使いすぎたせいか、ひどい眩暈がした。

さすがに、キングクラスの攻撃を受け止めるのは、私一人の魔力供給では限界があったらしい。


『アリア! アリア! しっかりして!』

『魔力が足りないよ! このままじゃ結界が維持できない!』


精霊たちの悲痛な声が聞こえる。

キングウルフが再び息を吸い込み始めた。次の一撃が来る。もう防げない。


「……ここまで、かな」


北でスローライフを送る夢は、ここで終わりか。

でも、誰かのために力を使えたなら、悪くない最期かもしれない。

私は静かに目を閉じた。


その時だった。


ヒュンッ――ドスッ!


空を切り裂く鋭い音と共に、何かがキングウルフの眉間に突き刺さった。

「ギャアアアッ!」

断末魔の悲鳴を上げ、巨獣がどうっと地に伏す。

見れば、その頭部には、氷で作られた巨大な槍が深々と突き刺さっていた。


「……え?」


私は呆然と顔を上げた。

地響きのような音が近づいてくる。

蹄の音だ。それも、一つや二つではない。

吹雪の向こうから、黒い鎧を纏った騎馬隊が現れた。

その先頭に、一際大きな黒馬に跨る男がいる。


漆黒の髪に、凍てつくようなアイスブルーの瞳。

整った顔立ちだが、その表情は彫像のように冷たく、一切の感情を感じさせない。

身に纏う空気は鋭利な刃物のようで、周囲の温度がさらに下がったかのような錯覚を覚える。

間違いない。噂に聞く「氷の公爵」、ヴァルド・フォン・アイスバーグだ。


彼が率いる騎士団が、あっという間に残りのホワイトウルフたちを駆逐していく。その手際は鮮やかで、まるで舞踏を見ているようだった。


公爵は、キングウルフの死骸を一瞥もしないまま、馬を私の方へと進めた。

商隊の人々は、助かった安堵よりも、公爵への畏怖で震え上がって平伏している。

私も膝をつこうとしたが、足に力が入らず、その場にへたり込んでしまった。


公爵の馬が、私の目の前で止まる。

見上げると、恐ろしく冷ややかな瞳と目が合った。

心臓が早鐘を打つ。

怒られるのだろうか。こんな場所で魔獣騒ぎを起こした不審者として。


彼は馬から降りると、雪を踏みしめて私に近づいてきた。

その背後には、彼に従う騎士たち――ではなく、もっと恐ろしいものがいた。

巨大な、それはもう見上げるほど巨大な、半透明の巨人が浮いていたのだ。

全身が氷の結晶で構成され、王冠のような角を生やした威厳ある姿。

あれは、氷の精霊王……いや、それに匹敵する高位の精霊だ。


その氷の巨人が、じっと私を見下ろしている。

そして、公爵の肩に大きな手を置いているのが見えた。まるで、彼を守護するように。


『ほう、面白い人間がいるな』


氷の巨人が、低い声でそう言った気がした。

私の周りの小さな精霊たちが、恐れをなして私の服の中に隠れてしまう。

『ひいっ、親分だ!』

『怖いのが来た!』


公爵が私の前で片膝をつき、視線の高さを合わせた。

近くで見ると、その美貌は息を呑むほどだった。冷たいけれど、どこか惹きつけられるような不思議な魅力がある。

彼は私の顔を覗き込み、眉を微かに寄せた。


「……お前、何者だ?」


低い、バリトンの声。

「商隊の者ではないな。その恰好……ドレスか? こんな吹雪の中で」


彼は私の薄着を見て、呆れたように、あるいは不可解なものを見るように言った。

そして、彼の手が私の頬に触れようと伸びてくる。

その瞬間、私の周りに隠れていた精霊たちが、反射的に防御反応を示した。

バチッ!

公爵の指先と私の頬の間で、小さな静電気が弾ける。


公爵は目を丸くして手を引っ込めた。

「……結界か? いや、これは……」


彼は自分の手を見つめ、それから私の周囲の空間をじっと凝視した。

やはり、彼には見えていないのだ。

私の周りに、数え切れないほどの精霊が密集し、私を守ろうと必死に威嚇している姿が。

彼に見えているのは、せいぜい空間の歪みか、淡い光の粒程度だろう。


けれど、私には見えていた。

彼の背後にいる氷の巨人が、興味深そうに身を乗り出してきているのを。

そして公爵自身からも、信じられないほど濃密で清らかな魔力が溢れ出ているのを。

この人は、精霊に愛されている。私と同じ、いや、私以上に強力な精霊を引き寄せる質を持っている。

なのに、本人はそれに気づいていない?


意識が急速に遠のいていく。

魔力枯渇と、緊張の糸が切れたことによる反動が一気に来たようだ。

視界が暗転していく中、私は朦朧とした頭で、目の前の男に問いかけた。


「……後ろの大きな氷の人……寒くないんですか?」


「は?」


公爵が、初めて表情を崩した。驚愕に目を見開いている。

私はその、少しだけ人間味のある顔を見て、ふふっと小さく笑った。


「あなた、すごく……綺麗、な……」


精霊に愛された、あなたの魂の色が。

そう言いかけて、私の意識はプツリと途切れた。

最後に感じたのは、冷たい雪の感触ではなく、温かく力強い腕に抱き留められた感覚だった。


続く

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