第4話 氷の公爵様は、噂ほど冷たくないようです
アイスバーグ公爵邸での生活は、驚きと戸惑いの連続で始まった。
まず、私が案内された部屋が、王族の来賓用客室だということ。
天蓋付きのベッドは雲のように柔らかく、窓には最高級のベルベットのカーテン。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、部屋の隅には常に新鮮な花が飾られている。
そして何より――暖かい。
「おはよう、アリア!」
「よく眠れた?」
「今日は晴れてるよ!」
枕元で飛び跳ねる小さな火の精霊たちが、私に朝の訪れを告げてくれる。
私が目覚めると同時に、部屋の暖炉の火がぱちんと勢いを増した。
この部屋が暖かいのは、もちろん暖炉のおかげもあるけれど、それ以上に精霊たちが私のために室温を調整してくれているからだ。
「おはよう、みんな。……ふあ」
大きく伸びをして、私はベッドから抜け出した。
昨日、ヴァルド様――公爵様から「ここにいてくれ」と言われた時のことを思い出すと、まだ頬が熱くなる。
不器用で、言葉足らずで、でも必死な瞳。
『氷の公爵』なんて呼ばれているけれど、その内側にあるのは、誰よりも純粋で温かい心なのだと私は知ってしまった。
コンコン、とドアがノックされる。
「アリア様、失礼いたします。マーサです」
「はい、どうぞ」
入ってきたのはメイド長のマーサさんだ。
彼女の後ろには、若いメイドが二人、洗面器やタオルを持って控えている。
マーサさんは私の顔色を見て、ほっとしたように微笑んだ。
「顔色がよろしいようで安心いたしました。昨晩はぐっすりお休みになれましたか?」
「はい、おかげさまで。こんなに心地よいベッドは初めてです」
「それはようございました。……旦那様も、今朝は随分と機嫌が良いご様子で。屋敷の廊下が凍っていないのは数年ぶりかもしれません」
マーサさんが冗談めかして言ったが、若いメイドたちはクスクスと笑いつつも、どこか怯えたような表情を隠せていない。
やはり、使用人たちにとってヴァルド様は「恐ろしい主」なのだろうか。
「あの、マーサさん。ヴァルド様は普段、どのような感じなのですか?」
着替えを手伝ってもらいながら、私はさりげなく尋ねてみた。
マーサさんは少し考え込むように視線を宙に向けた。
「そうですね……。旦那様は、あまり多くを語りません。常に冷気を纏っておられるので、私たちも長くそばにいることはできませんし、感情が高ぶると屋敷の一部が凍りつくこともしばしばで……。先代の公爵様が亡くなってから、ずっとお一人で公務と魔物討伐に明け暮れておられました」
孤独。その言葉が胸に刺さる。
強力すぎる魔力と、それに引き寄せられる精霊たちのせいで、彼は人との距離を置かざるを得なかったのだ。
「でも、私は知っていますよ。旦那様が、誰よりも領民思いで、慈悲深い方だということを」
マーサさんは私のドレスのリボンを結びながら、優しく付け加えた。
「アリア様がいらしてから、旦那様の纏う空気が変わりました。まるで、長い冬がようやく終わりを告げたような……そんな気がするのです」
彼女の言葉に、私は胸が温かくなった。
私にできることは少ないかもしれない。けれど、精霊の「通訳」として、彼の誤解を解くことくらいはできるはずだ。
「さあ、朝食の準備が整っております。食堂へ参りましょう」
◇
食堂へ案内されると、そこには既にヴァルド様が座っていた。
長いテーブルの端、上座に座る彼の周りには、相変わらず無数の氷の精霊たちが漂っている。
そして背後には、あの巨大な氷の精霊王(仮)が、腕組みをして仁王立ちしていた。
「……おはよう、アリア」
私が部屋に入ると、ヴァルド様が立ち上がって迎えてくれた。
その表情は硬いが、アイスブルーの瞳には微かな安堵の色が見える。
「おはようございます、ヴァルド様」
私が近づくと、彼の周りの精霊たちが『アリアだ!』『アリアが来た!』とざわめき出した。
その喜びようと連動して、部屋の温度が一気に下がる。
給仕をしていた執事の手が震え、カトラリーがカチャカチャと音を立てた。
ヴァルド様が申し訳なさそうに眉を寄せる。
「すまない……。また、冷気が……」
「いいえ、大丈夫です。皆さん、おはようございます。でも、食事の時間ですから、少しだけ静かにしてあげてくださいね。スープが冷めてしまいますから」
私が精霊たちに微笑みかけると、彼らは『はーい』と素直に散らばっていった。
背後の巨人も、心得たというように少し距離を取る。
途端に、食堂の空気が和らいだ。
執事が目を丸くして私を見ている。
「……魔法のようだ」
ヴァルド様が感嘆の息を漏らした。
「君が声をかけるだけで、彼らはこうも大人しくなるのか」
「大人しいというか、彼らはヴァルド様の感情に敏感なんです。ヴァルド様が私に会えて嬉しいと思ってくださったから、彼らもはしゃいでしまったんですよ」
私がそう言うと、ヴァルド様はグラスを持ったまま固まった。
そして、耳まで真っ赤にして口元を手で覆う。
「……う、嬉しいというのは、その」
「あ、ごめんなさい! 精霊たちがそう言っていたので、つい!」
精霊の声は、主人の無自覚な本音を垂れ流すことがある。
それをそのまま伝えてしまうなんて、私も配慮が足りなかった。
気まずい沈黙が流れるかと思いきや、ヴァルド様は小さく咳払いをして、席を勧めてくれた。
「座ってくれ。……君の言う通りだ。否定はしない」
ボソリと呟かれた言葉の破壊力に、今度は私が赤面する番だった。
な、なんて素直な人なんだろう。
王都の貴族たちは腹の探り合いばかりだったけれど、彼は言葉は少ないが、嘘がない。
食事中、ヴァルド様は不器用ながらも私を気遣ってくれた。
「口に合うか? 北の味付けは濃くないか?」
「とても美味しいです。お野菜が甘くて驚きました」
「雪の下で育つ野菜は糖度が高いんだ。……もっと食べろ」
そう言って、彼は私の皿にパンや肉料理をどんどん追加してくる。
「あ、あの、もう十分です!」
「痩せすぎだ。王都ではちゃんと食事を与えられていなかったのだろう。ここでは好きなだけ食べていい」
彼の瞳には、純粋な心配の色があった。
「地味」とか「可愛げがない」と言われ、食事を抜かれることもあった実家での扱いを知っているのか、彼は私を太らせようとしている節がある。
その過保護さが、なんだかこそばゆくて、嬉しかった。
食後、ヴァルド様は私を屋敷の案内へ連れ出してくれた。
廊下を歩いていると、すれ違う使用人たちが皆、壁際に寄って深々と頭を下げる。
彼らの顔には緊張が張り付いている。
ヴァルド様はそれに気づいているのかいないのか、無表情のまま通り過ぎようとする。
その時だった。
角を曲がってきた若いメイドが、私たちの姿を見て驚き、手に持っていた花瓶を取り落としてしまった。
「あっ……!」
ガシャン、という音と共に、水と花が床に散らばる。
ヴァルド様が咄嗟に手を伸ばした。
「危ない」
破片がメイドに当たらないように、魔法で防ごうとしたのだろう。
しかし、彼の手から放たれたのは防御魔法ではなく、強烈な冷気だった。
パキパキパキッ!
一瞬にして、こぼれた水と散らばった花、そして割れた花瓶の破片が、美しい氷の彫刻のように凍りついてしまった。
幸い、メイドに怪我はない。しかし、彼女は真っ青な顔でその場にへたり込んだ。
「ひっ……も、申し訳ございません! お許しください、お許しください!」
彼女はガタガタと震えながら、床に額を擦り付けて謝罪を始めた。
旦那様を怒らせてしまった、氷漬けにされる、と思っているのだ。
ヴァルド様の手が空中で止まる。
その表情が、悲しげに歪んだのを私は見た。
「……違う。私はただ……」
彼は何かを言いかけて、口を閉ざした。弁解しても無駄だと諦めているような顔だ。
いつもこうやって、彼は誤解され、恐れられてきたのだろう。
私は一歩前に出た。
へたり込むメイドの肩に優しく手を置く。
「大丈夫よ。顔を上げて」
「あ、アリア様……で、でも、私……」
「見てごらんなさい。破片が一つもあなたに当たっていないでしょう?」
私が指差すと、メイドはおそるおそる床を見た。
氷は、彼女の足元ギリギリで止まり、まるで壁のように彼女を守っていた。
「ヴァルド様は、あなたを守るために魔法を使われたのよ。決して怒っているわけではないわ」
私は凍りついた花に手をかざした。
「ねえ、サラマンダー。少しだけ力を貸して」
私の呼びかけに応え、赤い光の粒が氷を包み込む。
氷は瞬く間に溶け、ただの水に戻った。私はすかさず風の精霊に頼んで水を蒸発させ、床を乾かす。
「……え?」
メイドが呆気にとられた顔で私とヴァルド様を交互に見る。
私はヴァルド様に向き直り、にっこりと微笑んだ。
「ヴァルド様、お怪我はありませんか? 咄嗟の判断、流石です」
ヴァルド様は目を丸くしていたが、すぐに私の意図を汲んでくれたようだ。
「……ああ。怪我はない。そちらこそ、驚かせてすまなかった」
そして、まだ震えているメイドに視線を向け、努めて柔らかい声で言った。
「破片で足を切らなくてよかった。……代わりの花瓶はいくらでもある。気にするな」
メイドの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
それは恐怖の涙ではなく、安堵と感動の涙だった。
「あ……ありがとうございます、旦那様! ありがとうございます!」
彼女が何度も頭を下げて去った後、ヴァルド様はふう、と深く息を吐いた。
「……礼を言う、アリア。君がいなければ、また私は何も言えずに立ち去るところだった」
「私は事実を言っただけです。ヴァルド様は優しい方ですから」
「優しい、か。……そんな言葉を私に向けるのは、世界で君だけだろう」
彼は苦笑したが、その顔は先ほどよりもずっと穏やかだった。
背後の氷の巨人も、うんうんと満足そうに頷いている。
『良い嫁をもらったな、我が主よ』
巨人の声が頭に響き、私は思わず噴き出しそうになった。
まだお嫁さんじゃありません!
その後、ヴァルド様は私をとある部屋の前へ連れて行った。
「ここだ」
重厚な扉を開けると、そこは広大なドレスルームだった。
壁一面のクローゼットには、色とりどりのドレスがぎっしりと並び、ショーケースには宝石が煌めいている。靴、帽子、手袋、ショール……。
まるで王都の高級ブティックをそのまま持ってきたような光景だ。
「……えっと、これは?」
私が呆然としていると、ヴァルド様は真顔で言った。
「君の荷物がないと言っていたからな。とりあえず、王都の流行を取り寄せさせた。サイズが分からなかったので、全サイズ揃えてある」
「ぜ、全サイズ!?」
「気に入らないものがあれば、すぐに別のものを用意させる。宝石も、君の瞳の色に合うものを集めさせたが……」
彼はショーケースから、大粒の琥珀(アンバー)があしらわれたネックレスを取り出した。
私の瞳の色と同じ、深い蜂蜜色。
「君は地味だと言っていたが、私には、君の瞳は何よりも美しく見える。だから……これを受け取ってくれないか」
彼は不器用な手つきで、ネックレスを私に差し出した。
それは、婚約指輪を贈るよりも重く、そして真摯な贈り物だった。
「地味で可愛げがない」と婚約破棄された私が、ここでは「美しい」と言われ、宝石を贈られている。
その落差に、涙が出そうになった。
「……ありがとうございます。大切にします」
私が受け取ると、ヴァルド様はホッとしたように表情を緩めた。
その時、私の眼鏡が少しずれた。
ヴァルド様が自然な動作で手を伸ばし、私の眼鏡をそっと外した。
「あっ……」
「やはり、ない方がいい」
彼は私の素顔を至近距離で見つめ、熱っぽい瞳で囁いた。
「その瞳が、よく見える」
ドキン、と心臓が跳ねた。
精霊たちが『わーお!』『見つめ合ってる!』『チューしちゃえ!』と囃し立てるのが聞こえる。
もう、静かにしてよ!
その時、廊下の方からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「旦那様! 旦那様、大変です!」
飛び込んできたのは、騎士団長らしき屈強な男性だった。
彼は良い雰囲気だった私たちを見て一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに深刻な表情で報告した。
「王都より、早馬が到着しました! ……王家からの緊急の親書です」
「王家から?」
ヴァルド様の表情が一瞬で「氷の公爵」のものに戻る。
「内容は」
「はっ。……『至急、アリア・フォン・ローゼンを捜索し、王都へ護送せよ』とのことです」
その言葉に、私の血の気が引いた。
見つかった。いや、探している?
「護送」という言葉の響きは、まるで罪人を扱うようだ。
「王都では現在、原因不明の天候不順により、作物が全滅の危機に瀕しているとか。そのため、精霊使いの疑いがある者を片っ端から集めているようです」
騎士団長の報告を聞き、私は拳を握りしめた。
精霊の怒りが、現実のものとなって王都を襲っているのだ。
そして彼らは、自分たちの愚行を棚に上げて、私を利用しようとしている。
「……渡さない」
低く、地を這うような声が響いた。
見上げると、ヴァルド様の周囲に猛烈な吹雪が吹き荒れていた。
部屋の中だというのに、彼の怒りに呼応して氷の精霊たちが暴れ出しているのだ。
背後の氷の巨人が、激しい憤怒の形相で吼えている。
『我が花嫁を奪おうとする愚か者どもめ!』
ヴァルド様は私の肩を抱き寄せ、強く抱きしめた。
その腕は震えていたが、恐怖ではない。激しい怒りと、私を守ろうとする決意に震えているのだ。
「アリアは私のものだ。誰にも渡さん。……王家だろうと、何だろうと、私の妻に指一本触れさせるものか」
「妻……?」
「そうだ。今決めた」
ヴァルド様は私を見下ろし、燃えるようなアイスブルーの瞳で宣言した。
「アリア、私と結婚してくれ。形式上でも構わない。公爵夫人となれば、王家も容易には手を出せない」
「えっ、あ、あの……」
「もちろん、君が望まないなら無理強いはしない。だが、守らせてほしい。君を、あの愚か者たちから」
彼の真剣な眼差しに、私の迷いは消えた。
実家にも、王家にも、未練はない。
私を必要としてくれるのは、この人と、ここの精霊たちだけだ。
「……はい。謹んでお受けいたします、ヴァルド様」
私が答えると、ヴァルド様は私をさらに強く抱きしめた。
部屋の外ではまだ雪が降っている。
けれど、王都からの冷たい風は、この最強の「氷の壁」が防いでくれるだろう。
「すぐに準備をさせる。……王都の使者には、追い返すと伝えておけ!」
「はっ!」
騎士団長が敬礼して走り去る。
こうして、私は成り行きで、氷の公爵様の「婚約者」となることになった。
王都がパニックになっていることなど、この時の私たちはまだ知る由もなかった――いや、薄々は感づいていたけれど、ヴァルド様の腕の中が心地よすぎて、どうでもよくなっていたのが本音かもしれない。
続く
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