第2話 途方に暮れて森を歩いていたら、伝説の魔狼(フェンリル)を『掃除』してしまった

奈落のダンジョンを抜けた僕の眼前に広がっていたのは、見渡す限りの大森林だった。

時刻は正午を過ぎたあたりだろうか。木漏れ日が眩しく、草いきれと湿った土の匂いが鼻をくすぐる。

三年間、カビ臭いダンジョンと薄暗い野営地で過ごしてきた僕にとって、この外の世界の色彩は目に痛いほど鮮やかだった。


「ふぅ……。久しぶりのシャバの空気だ」


僕は大きく伸びをした。

肺いっぱいに吸い込んだ空気は、しかし僕の感覚からすると少し『不純物』が多かった。

花粉、砂埃、微細な虫の死骸。

無意識のうちにスキルが発動し、吸い込む直前で空気を『濾過』してしまう。おかげで僕の肺に入るのは、常に無菌室レベルの純粋な酸素だけだ。

これを「神経質すぎる」と勇者ライオットには馬鹿にされたが、快適なのだから仕方がない。


「さて、と」


僕は手にしたボロボロの地図を広げた。

勇者パーティが捨てていった、書き込みだらけの地図だ。

目指す場所は、ここから北へ三日ほど歩いた場所にある『魔境の森』。その奥深くにあるという廃村だ。

かつては湯治場として栄えたらしいが、あまりに凶悪な魔物が出るため放棄され、今は人の寄り付かない危険地帯になっているという。


「人の寄り付かない場所、か。最高じゃないか」


誰にも邪魔されず、誰の汚れも気にせず、ただ自分のテリトリーを磨き上げる日々。

想像しただけで口元が緩んでしまう。

僕は地図を懐にしまうと、背丈ほどもある草が生い茂る獣道へと足を踏み入れた。


   ◇


森に入って数時間が経過した。

道中、いくつかの『ゴミ』に遭遇した。


ブブブブブ……。


「うわ、羽音がうるさいな」


目の前に現れたのは、巨大なハチの群れだった。

『キラーホーネット』。一刺しで大男を即死させる猛毒を持つ魔物だ。

それが黒い雲のように密集して、僕の進路を塞いでいる。

普通なら悲鳴を上げて逃げ出す場面だろう。

だが、僕にはそれらが「空中に漂う目障りな黒いシミ」にしか見えなかった。


「ちょっと、通る邪魔なんだけど」


僕はハエを払うように手を振った。


「対象、『進路上の害虫』。――『拭き取り』」


音もなく、空間が歪む。

数百匹はいたであろうキラーホーネットの群れが、次の瞬間には一匹残らず消滅していた。

死体が落ちることもない。

存在そのものが、この世界の座標から『拭き取られた』のだ。

後に残ったのは、キラキラと輝く無数の魔石と、ドロップアイテムである高級な蜂蜜の壺だけ。


「お、蜂蜜だ。ラッキー。今日の夕食のパンにつけよう」


僕は地面に落ちたアイテムを拾い上げ、何食わぬ顔で歩き出した。

勇者パーティにいた頃は、こうしたドロップ品も全て「俺たちの手柄」として没収されていた。

自分が倒した(掃除した)ものの報酬を、自分で受け取れる。

当たり前のことなのに、それがこんなにも嬉しいなんて。


その後も、襲い来る『ゴミ』たちは後を絶たなかった。

茂みから飛び出してきた『オークキング』は、振り上げた棍棒ごと『粗大ゴミ』として処理した。

足元から絡みついてきた食人植物『マンイーター』は、『雑草』と認識して根こそぎ消去した。

彼らがSランク冒険者ですら苦戦する魔物だとは知っていたが、僕にとっては廊下の隅のホコリと大差ない。

僕に敵意を向け、快適な旅路を阻害するものは、全て等しく『掃除対象』なのだから。


   ◇


一方その頃。

ダンジョンに残された勇者パーティ『天剣の翼』は、地獄のような状況に陥っていた。


「はぁ、はぁ……っ! なんだ、この数は……!」


勇者ライオットは、刃こぼれした聖剣を必死に振るっていた。

目の前にいるのは、ダンジョンの下層に生息する『スケルトン・ナイト』の群れだ。

以前なら一撃で薙ぎ払えたはずの雑魚敵。

だが、今の彼らは満身創痍だった。


「ライオット! 私のヒールが追いつきません! 魔力ポーションの在庫もないのですか!?」

「うるさい! ポーションならさっき飲み尽くした! おいボラン、壁役はどうした!」

「無理言うなよ! 俺の鎧、いつの間にか留め具が腐ってやがって、動くたびに外れそうなんだよ! それに股間が痒くてたまらねぇ!」

「お主ら、文句を言っている場合か! ワシの杖を見ろ、魔力の充填率が半分以下じゃ! このままでは結界が維持できんぞ!」


彼らは気づいていなかった。

これまでの戦闘で、彼らの武器防具が劣化しなかったのは、戦闘終了のたびにアレクがこっそりと『修復(リペア)』――つまり、金属疲労や微細な亀裂を『破損という汚れ』として除去していたからだ。

ポーションの残量が尽きなかったのは、アレクが空き瓶に残ったわずかな一滴を『増殖(ゴミの逆再生)』……いや、これは正確には掃除ではないが、彼なりに応用して水増ししていたからだ。

股間の痒みも、鎧の腐食も、全てアレクが未然に防いでいたこと。


「くそっ、なんでだ! 昨日はこんなに苦戦しなかったはずだ! 急に魔物が強くなったのか!?」


ライオットが叫ぶ。

魔物が強くなったのではない。彼らが弱くなり、そして『本来の難易度』に直面しているだけだ。

アレクという『難易度緩和フィルター』を失った彼らは、今まさにSランクダンジョンの真の恐怖を味わっていた。


「ちくしょう! あの掃除屋、どこに行きやがった! 戻ってきたらタダじゃおかねぇぞ!」


ライオットの怒号は、虚しく洞窟内に響き渡り、新たな魔物を呼び寄せるだけだった。


   ◇


日が傾き始め、森が茜色に染まる頃。

僕は森の奥深くで、ある異変に気がついた。


「……臭いな」


それは、腐敗臭と血の匂い、そして焼け焦げたような刺激臭が混じり合った、強烈な悪臭だった。

僕は鼻をつまみ、顔をしかめた。

潔癖症に近い僕にとって、この匂いは耐え難いストレスだ。


「発生源は……あっちか」


風上に向かって歩を進める。

匂いの元を断たなければ、今夜の安眠は望めない。

藪をかき分け、開けた場所に出た瞬間、僕は息を呑んだ。


そこには、巨大な『何か』が倒れていた。

一見すると、黒いヘドロの塊のようにも見える。

大きさは馬車二台分ほど。

ドロドロとした黒い液体が全身を覆い、そこから不快な瘴気が立ち上っている。


「うわぁ……。これはひどい」


僕は思わず声を漏らした。

近づいてよく見ると、それは獣だった。

狼、だろうか。

だが、その体は無数の傷と、毒々しい紫色の呪詛のようなもので覆われている。

生きているのが不思議なくらい、その命の灯火は弱々しかった。


『グルル……ゥ……』


僕の気配に気づいたのか、黒い塊がわずかに動いた。

赤い瞳が、泥の中からこちらを睨みつける。

その瞳には、深い絶望と、近づく者への警戒心、そして諦めのような色が混在していた。


(……鑑定してみるか)


僕は習慣で、ギルド支給の簡易鑑定モノクルを取り出した。

勇者パーティを追い出される時に、これだけは私物だからと持ってきたのだ。


【個体名:フェンリル(汚染状態)】

【ランク:SSS(災厄級)】

【状態:瀕死、呪詛侵食、全身複雑骨折、魔力枯渇】

【備考:伝説の神獣。三百年前に魔王と戦い、呪いを受けて敗走。以来、森の主として孤独に死を待っている】


「フェンリル……!?」


僕は驚いてモノクルを落としそうになった。

フェンリルと言えば、御伽噺に出てくる最強の魔狼だ。

一吠えで山を崩し、その牙は神すらも食い殺すとされる、生きた伝説。

それが、こんな泥まみれの雑巾みたいになって倒れているなんて。


『人間……か……。我の首を……取りに来たか……』


頭の中に、直接響くような重厚な声が聞こえた。

念話だ。さすがは神獣、知能が高い。


『だが……残念だったな……。我はもう……腐り果てた……。我を殺しても……名誉も素材も……手に入らぬぞ……』


フェンリルは自嘲気味に笑った(ように見えた)。

確かに、その体はボロボロだ。

呪いは肉深くまで食い込み、美しいはずの毛並みはタールのような粘液で固まっている。

普通なら、近づくだけで呪い殺されるレベルの瘴気だ。


でも。

僕が感じたのは、恐怖ではなかった。

ただひたすらに、強烈な『不快感』だった。


「……汚い」


『な……?』


「汚すぎるよ、君。よくそんな状態で我慢できるね」


僕は腕まくりをした。

我慢の限界だった。

伝説の魔獣だろうが、災厄級だろうが関係ない。

僕の目の前で、こんなに汚いものが放置されていることが許せなかった。

それに、よく見ればその瞳。

泥にまみれながらも、まだ気高い光を失っていない。

まるで、ゴミ捨て場に捨てられた宝石のようだ。


「じっとしてて。今、楽にしてあげるから」


僕はフェンリルに歩み寄った。


『よせ……触れるな……! この呪いは……触れた者すべてを腐らせる……!』


フェンリルが警告するが、僕は無視してその鼻先に手を伸ばした。

瘴気が僕の手にまとわりつこうとする。

だが、僕の皮膚に触れるより先に、その瘴気自体が『消滅』していく。


「対象、『付着した汚れ』『呪いの残滓』『壊死した細胞』『余計な病原菌』。――まとめて『全洗浄(フル・クリーニング)』」


カッ!


僕の手のひらから、眩い純白の光が放たれた。

それは攻撃魔法のような激しいものではない。

もっと静謐で、絶対的な『拒絶』の光。

汚れを許さない、潔癖の理(ことわり)。


『グ、オオオオオオオッ!?』


フェンリルが絶叫する。

その体から、黒いヘドロのような呪詛が、悲鳴を上げながら剥がれ落ちていく。

いや、剥がれるのではない。

空間から『削除』されていくのだ。

こびりついた百年越しの呪いも、傷口に湧いたウジ虫も、毛に絡みついた泥も。

全てが『掃除』されていく。


バチバチバチッ!

世界が修正される音がする。

フェンリルの体から黒色が消え、その下から現れたのは――


月光のように輝く、銀色の毛並みだった。


「うん、やっぱり。洗えば綺麗になると思ったんだ」


僕は満足げに頷いた。

目の前にいるのは、先ほどの薄汚い塊とは別次元の、神々しい狼だった。

体長は四メートルほどだろうか。

ふさふさとした銀の体毛は風になびき、折れていたはずの骨や裂けていた皮膚も、『破損』という名の汚れとして処理したおかげで、完全に元通りになっている。


『…………』


フェンリルは、自分の体を見下ろして呆然としていた。

前足を上げ、軽く振ってみる。痛みはない。

体を覆っていた重苦しい呪縛も、腐敗臭も、すべて消え失せている。


『何をした……? 人間よ……』


震える声で問われた。

その瞳には、先ほどの絶望は微塵もない。あるのは驚愕と、底知れぬ畏怖。


「何って……掃除だよ」


僕はハンカチで手を拭きながら答えた。


「君、すごく汚れてたからさ。見てられなくて。ああ、ついでに周りの地面も綺麗にしておいたよ」


見れば、フェンリルの周囲半径十メートルほどの地面が、雑草一つない清潔な更地になっていた。

土壌汚染も浄化されたため、ここだけ聖地のように空気が澄んでいる。


『掃除……だと? 我を蝕んでいたのは、魔王ゼノスの『黒死の呪い』だぞ? 大陸中の聖女が集まっても解けなかった、絶対の呪い……それを、掃除したと言うのか?』


「へぇ、そうなんだ。結構しつこい油汚れみたいだったから、『強』モードにしちゃったよ。痛くなかった?」


『…………』


フェンリルは言葉を失ったようだ。

口をパクパクさせている。

まあ、綺麗になったならそれでいい。

これであの悪臭に悩まされることもない。


「じゃ、僕は行くね。これからは定期的に水浴びした方がいいよ」


僕は目的を果たしたので、踵を返して立ち去ろうとした。

これ以上長居して、また汚れたりしたら面倒だ。


『ま、待て!』


背後から呼び止められた。

振り返ると、フェンリルが慌てて体を起こし、僕の方へ擦り寄ってくる。

その巨大な体躯からは想像もつかないほど、しおらしい態度だ。


『命の恩人を、このまま行かせるわけにはいかん。我が名はフェンリル。誇り高き狼の長である』


フェンリルは前足を折り、僕に向かって頭を下げた。

それは、最上位の服従を示すポーズだった。


『我が命、我が魂、今この瞬間より貴殿に捧げよう。主(あるじ)よ、どうかこの愚犬を傍に置いてはくれぬか』


「え……犬?」


『犬ではない、狼だ。だが、主が犬と呼ぶならワンと鳴こう』


フェンリル――いや、世界最強の魔獣は、期待に満ちた目で僕を見上げ、尻尾を大きく振った。

その風圧だけで周囲の木々が薙ぎ倒されそうになっている。

どうやら、懐かれてしまったらしい。


「うーん……ペット禁止の宿だったら困るんだけどな」


『宿? 主は宿を営むのか? ならば我は番犬になろう。不届き者はすべて噛み砕いてくれる』


噛み砕かれては掃除の手間が増えるのだが。

まあ、この森は危険だし、護衛(という名のモフモフ要員)がいるのも悪くないかもしれない。

それに、この銀色の毛並み。

手触りが最高に良さそうだ。


「わかったよ。じゃあ、一緒においで。ただし条件がある」


『なんだ? 生贄か? それとも国を一つ滅ぼせばいいか?』


「足を拭いてから歩くこと。それと、抜け毛の処理は自分ですること」


『……は?』


「清潔第一。これ、僕のパーティの鉄則だから」


きょとんとするフェンリルに、僕はニカっと笑いかけた。

こうして僕は、追放された翌日に、世界最強のペットを手に入れたのだった。


「名前、どうしようかな。ポチでいい?」


『……主のセンスには一抹の不安を覚えるが、主が望むなら甘んじて受け入れよう』


さすがにポチは却下された(心なしか尻尾の振りが弱まった)ので、歩きながら考えることにした。

一人と一匹。

奇妙な道中は、意外なほど賑やかなものになりそうだった。


続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る