チョコレートの雪の下
神谷嶺心
チョコレートの雪の下
カフェの窓ガラスは、客たちの温かい吐息で曇っていた。
外では雪が静かに降り続き、通りを白いヴェールのように覆っていく。
濃いコーヒーの香りに、溶けたチョコレートの甘さが混じる。
それでも、彼女の胸に重く沈むものを温めることはできなかった。
彼女はすでに席についていた。
両手で湯気の立つカップを包み込み、暗い液体を見つめる。
声に出せない思いを映す鏡のように。
心臓はゆっくりと、重く、時間を引きずるように打っていた。
軋む音とともにドアが開き、冷たい風が店内に吹き込む。
彼が入ってきた。
赤くなった鼻、広い笑顔。
そして胸に抱えたのは、一箱のチョコレート。
まるで一日の光を取り戻す贈り物のように。
コートにはまだ雪が残り、瞳は熱を帯びて輝いていた。
「見て、これを持ってきたんだ」
息を弾ませながら、誇らしげに箱をテーブルへ置いた。
彼女は顔を上げる。
一瞬、その輝きに心が揺れそうになる。
だがすぐに、重い雲の影のような憂鬱が戻ってきた。
彼は気づかない。
彼女の沈黙の奥に、すでに変化が潜んでいることを。
彼女は微笑んだ。
しかしその笑みは、瞳には届かなかった。
胸の奥では、言葉がすでに研ぎ澄まされ、
二人の間を切り裂く瞬間を待っていた。
彼女の視線は、テーブルの上のチョコレートに落ちる。
金色の包み紙はカフェの灯りを反射していた。
だが彼女には、それが重く、皮肉に見えた。
彼は楽しげに話し続ける。
外の寒さ、風の鋭さ。
まるで日常の小さな冒険を語るかのように。
彼女は深く息を吸った。
カップから立ち上る蒸気が、言葉を隠そうとするかのように揺れる。
「……もう、だめだと思う」
囁くように、しかし確かに二人の間を越えて届いた。
彼は瞬きをし、笑みを張り付けたまま固まった。
「え……どういうこと?」
冗談だと笑おうとした。
だが彼女は笑わなかった。
視線は外に向けられていた。
雪はさらに激しく降り始め、
大きな白い塊が通りを覆い尽くしていく。
窓ガラスは風に震えていた。
沈黙が落ちる。
彼は椅子に身を引き、顔から血の気が失われていく。
まるで冷気が、言葉とともに彼の中へ入り込んだかのように。
外では吹雪が勢いを増していた。
人々は走り、コートを閉じ、避難先を探している。
街は白に飲み込まれようとしていた。
彼女は決断の重さを感じながらも、後戻りはしなかった。
カフェは暖かい牢獄のように思えた。
逃げ場はなく、言葉からも逃れられない。
彼は立ち上がった。
嵐と言葉から逃げるように。
だがドアを開けた瞬間、風が彼を押し戻した。
街を呑み込む雪を、ただ立ち尽くして見つめる。
彼女は席に残った。
震える手で冷めかけたカップを握り、
嵐の音を遠くに聞いていた。
外の世界は白に崩れ、
内側ではさらに重い沈黙が広がっていた。
彼女は手を伸ばそうとした。
時間を止めるように。
唇は動いたが、言葉は出なかった。
喉は塞がれ、避けられない重さに縛られていた。
濡れたマフラーがゆっくりと口元を覆う。
沈黙を隠す方が、破るよりも容易だった。
彼は一瞬、戸惑いながら彼女の瞳を探した。
だが彼女は振り返らなかった。
彼は手を伸ばし、テーブルの上のチョコレートを取った。
金色の包みを胸に抱え、
それは寒さと言葉に抗う脆い盾のように見えた。
彼はコートを整え、ドアへ歩いた。
吊るされたベルが鋭い音を響かせ、
カフェの沈黙を切り裂く。
それは意図せぬ別れの合図だった。
ドアが閉まり、風が吹雪の咆哮を運んでくる。
外の世界は白に呑まれ、
彼女の内側にも同じ暴力が広がっていった。
彼女は席に残り、冷え切ったカップを握り、
嵐の遠い音と、ベルの金属音の余韻だけを聞いていた。
カフェには不安げなざわめきが満ちていた。
何人かが立ち上がり、コートを閉じて外へ出ようとする。
だが店員がドアを押さえ、声を上げた。
「外は危険です。まだ出ないでください」
外では雪が吹き荒れ、通りをほとんど消し去っていた。
彼女は席に残り、携帯を握った。
通知が次々と鳴り響く。
政府からの警告、ニュース速報。
「外出は控えてください」
胸が締め付けられる。
彼のことを思う。
避難できただろうか。無事だろうか。
「ただの別れだった」
そう繰り返す。
慰めになるはずの言葉。
だが嵐の前では小さく、
彼女の中では逆に巨大だった。
画面には生中継の映像。
雪に覆われた通り、放置された車、避難に走る人々。
カウンターのテレビからも同じ警告が流れていた。
吹雪が収まるまで、誰も外へ出るべきではないと。
彼女はテーブルを見た。
そこにあったはずの贈り物はもうない。
空白が、金色の輝きよりも重く感じられた。
カフェ全体が時間を止められたようだった。
外の世界は白に呑まれ、
彼女の内側にはただ一つの問いが残る。
「彼は……無事なのだろうか」
時はゆっくりと過ぎていった。
彼女は気づかぬまま、カフェは人で満ち、
会話のざわめきと窓を叩く風が混じり合っていた。
携帯を握り、無限に流れるフィードを眺める。
ただ沈黙から逃れるために。
突然、見出しが現れた。
「吹雪の中で男性が車に轢かれ死亡」
彼女は指を動かし、記事を開いた。
映像が流れる。
雪に埋もれた通り。
動かない車。
遠くのサイレン。
そして――白の中に、ひとつの金色の輝き。
カメラが寄る。
半ば雪に埋もれながらも、
傷ひとつないチョコレートの箱が光を放っていた。
胸が跳ねる。
携帯を握る手が震える。
文字を読む必要はなかった。
言葉より先に、心が理解していた。
一瞬、世界が止まった。
カフェのざわめきは消え、
外の風も沈黙した。
残ったのは、自分の血の音だけ。
――彼だった。
渡されることのない贈り物が、
今は悲劇の証人となっていた。
氷のような衝撃が体を貫く。
赤い鼻。
笑顔。
チョコレートを抱えて入ってきた姿。
ドアのベルが鳴り響いた音。
すべてが断片となって蘇り、
雪の報せに覆われていく。
彼女は携帯をテーブルに置いた。
もう読むことはできなかった。
朝になり、カフェの扉がゆっくりと開いた。
風はもう唸らず、
だが街は変わり果てていた。
雪に埋もれた道。
動かない車。
厚く積もった白に覆われた看板。
弱い陽光が雪に反射し、残酷な輝きを放っていた。
彼女は重い足取りで外へ出た。
マフラーで口を覆い、冷気が肌を切る。
だが痛むのは内側だった。
街角は亡霊のように見え、
通りは沈黙の回廊となっていた。
携帯は震え続け、
同じ悲劇を繰り返し告げていた。
彼女は立ち止まり、
白に消えた地平を見つめる。
世界はあまりにも清らかに見えた。
雪が足跡だけでなく、物語までも消し去ったかのように。
記憶の中で、ベルの音がまだ響いていた。
チョコレートを抱えて入ってきた彼の笑顔。
赤い鼻。
輝く瞳。
別れの直前に凍りついた瞬間。
彼女はコートを抱きしめ、深く息を吸った。
冷たい空気が刃のように体を切る。
涙はなかった。
ただ重い沈黙が雪とともに広がり、
二度と戻らないものを覆い隠していた。
チョコレートの雪の下 神谷嶺心 @kamiya_reishin
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