最終章:終わらない詩―Epilogue―

第33話:国境の南、硝煙とインク

 南緯十度。

 赤道直下に位置する島国、イクエーター共和国。

 年中吹き付ける貿易風が運んでくるのは、海の潮の香りと、熟れた果実の甘い匂い、そして微かな硝煙の臭いだった。


 首都の裏通りにある安宿の一室。

 錆びついた天井のファンが、気怠(けだる)げに回っている。

 私は、窓際の小さな机でタイプライターを叩いていた。

 パソコンもスマホもない。ここにあるのは、葛原(くずはら)の紹介で頼った現地の活動家が用意してくれた、二十世紀の遺物のような道具だけだ。


 バチン、バチン。

 インクリボンの匂いが、かつて日本の実家で嗅いだ父の煙草の匂いを思い出させて、少しだけ鼻の奥がツンとした。


「……お嬢、買出しに行ってきましたよ」


 ドアが開き、瑛司(えいじ)が入ってきた。

 彼は麻のシャツにカーゴパンツというラフな格好をしていたが、その頭にはフードを目深に被っていた。

 白銀の髪と、オッドアイを隠すためだ。

 この国でも、私たちの手配書は回っていないものの、目立ちすぎる容姿はトラブルの元になる。


「おかえり。……またバナナ?」

 彼が抱えた紙袋から黄色い房が覗いているのを見て、私は苦笑した。

「仕方ないでしょう。この国じゃ、水よりバナナの方が安いんですから」


 瑛司は笑って紙袋を置くと、コップに水を注いで一気に飲み干した。

 その左腕――黒く変質した腕は、包帯で厳重に巻かれている。

 日本での戦いから一ヶ月。

 彼の体調は安定しているが、その左腕に宿る力は、時折制御できないほどの熱を持つことがあった。


「街の様子はどう?」

「相変わらずですよ。……政府軍と反政府ゲリラが、通りの向こうとこっちで睨み合ってる。市民はどっちにもいい顔をしないと生きていけない」


 瑛司はため息をついた。

「どこの国も同じですね。上が腐ってて、下が割を食う」


 イクエーター共和国は、長引く内戦の只中にあった。

 資源利権を巡って大国が介入し、傀儡(かいらい)政権と武装勢力が泥沼の争いを続けている。

 私たちが亡命先にここを選んだ(選ばれた)のは、ここが「世界の縮図」であり、そして何より、日本の警察権力が及ばない無法地帯だったからだ。


          *


 その日の午後。

 私たちは、宿の一階にある酒場(カンティーナ)で遅い昼食をとっていた。

 豆と肉の煮込み料理。味は濃いが、生きる活力が湧いてくるような野性味がある。


 店の奥にある古いテレビでは、政府軍の将軍が演説をしていた。

 『平和維持のために』『テロリストの排除を』。

 聞き飽きたフレーズだ。言葉は違えど、言っていることは錦川(にしきがわ)や葛城(かつらぎ)と同じだ。


「……気に食わねえ面構えだ」

 瑛司が煮込みをスプーンですくいながら呟く。


 その時、店の外が騒がしくなった。

 ジープのエンジン音と、男たちの怒鳴り声。

 

「おい、今月の『税金』が足りねえぞ!」


 入ってきたのは、迷彩服を着た政府軍の兵士たちだった。

 彼らは店の主人――私たちを匿ってくれている初老の男、ホセの胸倉を掴み上げていた。


「ま、待ってください大佐! 先週払ったばかりじゃないですか!」

「うるせえ! 反乱軍討伐のための特別徴収だ! 払えねえなら、この店を焼き払うぞ!」


 兵士の一人が、ライフルを振り回して客を威嚇する。

 店内の客は皆、目を伏せて縮こまった。

 日常茶飯事の光景。

 誰も逆らわない。逆らえば殺されるからだ。


 私はスプーンを置いた。

 瑛司もまた、静かにコップを置いた。


「……お嬢。どうします?」

 瑛司が小声で尋ねる。

 目立ってはいけない。私たちは逃亡者だ。ここで騒ぎを起こせば、居場所を失うかもしれない。

 でも。


「……父さんなら、どうしたと思う?」

 私が問い返すと、瑛司はニヤリと笑った。


「『弱い者いじめする奴は、ションベン漏らすまでボコるのが任侠だ』……そう言うでしょうね」

「正解よ」


          *


 ホセが兵士に殴られそうになった瞬間、瑛司が動いた。

 彼は音もなく席を立ち、兵士の手首を背後から掴んだ。


「……食事中だ。埃が舞うような真似はよせ」


 スペイン語ではない。日本語だ。

 だが、その声に含まれるドス黒い殺気は、言葉の壁を越えて伝わった。


「ああん? なんだお前は。……アジア人か? 観光客気分で口出しすると……」


 兵士が瑛司を振り払おうとしたが、びくともしない。

 瑛司が掴んでいる手――それは包帯を巻いた左手だった。

 ミシミシッ……。

 骨がきしむ音が響く。


「あ、が……ッ!?」

 兵士が悲鳴を上げる。人間の握力ではない。万力で締め上げられているようだ。


「テメェ! 離せ!」

 他の兵士たちが一斉に銃を構える。


 私はテーブルの下で、隠し持っていたナイフ――日本から持ち出した父の形見の短刀――を抜き放ち、テーブルを蹴り飛ばした。

 宙を舞うテーブルが目隠しになり、兵士たちの視界を塞ぐ。


「瑛司、やっちゃって!」


 瑛司が踏み込んだ。

 左手の包帯が解け、黒曜石の腕が露わになる。

 彼は銃撃を避ける素振りも見せず、黒い左腕でライフルの銃身を直接叩き折った。


 バギンッ!

 鋼鉄が飴のように曲がる。

 兵士たちが呆気にとられた一瞬の隙に、瑛司の拳がボディブローとして叩き込まれる。

 ドゴッ!

 防弾チョッキの上からでも内臓を揺さぶる一撃。兵士たちは泡を吹いて気絶した。


「ば、化け物……!」

 リーダー格の男が腰を抜かして後退る。

 瑛司はフードを外し、その白銀の髪とオッドアイを晒した。

 そして、黒い左腕を男の鼻先に突きつけた。


「二度とこの店に来るな。……次は、その軍服ごとスクラップにするぞ」


 男たちは悲鳴を上げ、這うようにして店から逃げ出した。

 ジープが土煙を上げて去っていく。


 店内に静寂が戻った。

 ホセや他の客たちが、恐る恐る顔を上げる。

 彼らの目に映っているのは、恐怖か、それとも感謝か。


「……グラシアス(ありがとう)。……でも、あんたたち、何者なんだ?」

 ホセが震える声で尋ねた。


 私は短刀を鞘に収め、微笑んだ。


「ただの小説家と、その用心棒よ」


          *


 その夜。

 宿の屋上で、私と瑛司は満天の星空を見上げていた。

 南十字星が見える。日本とは違う星座。

 でも、吹く風の冷たさは、あの日の拘置所の屋上と同じだった。


「……やっちまいましたね」

 瑛司が煙草を吹かしながら言った。

「これでまた、ここにもいられなくなるかもしれませんよ」


「いいじゃない。……世界は広いんだもの」

 私はノートを広げた。

 今日の出来事を、早速書き留める。

 『南の島の小さな正義』。それが新しい章のタイトルだ。


「それにね、瑛司。気づいたの」

「何をです?」

「私たちは逃亡者だけど、隠居老人じゃない。……戦うことでしか、生きている実感を得られない体になっちゃったみたい」


 瑛司は苦笑し、黒い左手を見つめた。

「ですね。……この腕も、お嬢のペンも、平和な日常には刺激が強すぎる」


 彼は私の方を向き、真剣な眼差しになった。

「お嬢。……俺たちはどこへ向かうんですか。革命は終わったはずなのに、道はまだ続いてる」


「革命に終わりはないのよ」

 私はペンを止め、夜空を指差した。

「日本だけじゃない。世界中に、まだ語られていない『悲鳴』がある。……それを見つけて、拾い上げて、物語にする。それが、生き残った私の……私たちの使命だと思う」


 極道作家。

 その肩書きは、もう日本のものではない。

 世界の理不尽と戦う、ボーダーレスな表現者の称号だ。


「……付き合いますよ。地獄の底まで」

 瑛司が私の肩を抱き寄せた。

「お嬢が書く物語の、最初の読者で、最強の盾であり続けます」


 私たちはキスをした。

 異国の夜風の中で、二つの白銀の魂が触れ合う。

 かつて日本を揺るがした二人のテロリストは、今、名もなき風来坊として、新たな旅路を歩み始めていた。


 遠くで、祭りの太鼓の音が聞こえる。

 それは、次の戦いへの予感を含んだ、力強い鼓動のように響いていた。


(第33話 完)

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