第26話:英雄の賞味期限
非常ベルが鳴り響き、スプリンクラーから放たれた水飛沫が、病院の廊下を水浸しにしていた。
視界が悪く、床は滑る。だが、それが今の私たちにとっては好都合だった。
「どけッ! 怪我したくなきゃ道を開けろ!」
瑛司(えいじ)が叫びながら、廊下を塞ごうとする警官隊に突っ込んだ。
彼の手には、フルーツナイフ一本。
獣神化(ビースト・モード)などできない。今の彼に残された力は、人間としての体術と、枯渇寸前の生命力だけだ。
それでも、彼の気迫は凄まじかった。
白銀の髪を振り乱し、鬼のような形相で迫る「革命の英雄」に、警官たちは恐怖で及び腰になった。
「ひっ、撃つな! 相手は病人だぞ!」
「馬鹿野郎、化け物だ! 近づくな!」
指揮系統が乱れている。
瑛司はその隙を見逃さず、先頭の警官の手首をナイフの峰(みね)で打ち据え、警棒を奪い取った。
流れるような動作。
だが、その直後、瑛司の体がガクンと揺れた。
「瑛司!」
私は彼の背中を支えた。体温が低い。まるで氷の彫像に触れているようだ。
「……平気です。行きましょう、お嬢」
私たちは非常階段を駆け下りた。
目指すは一階、中庭だ。
そこでは、ダンプカーで突っ込んだ晴天同盟と、待ち構えていた米軍特殊部隊との間で、乱闘が始まっていた。
*
「オラオラァ! ヤンキー・ゴー・ホームだ、すっこんでろ!」
中庭はカオスだった。
葛原(くずはら)が、ダンプカーの荷台から催涙ガス弾(手製)をバラ撒いている。
白煙が立ち込め、黒い戦闘服を着た屈強な外国人たちが咳き込みながら視界を奪われていた。
銃撃戦ではない。彼らは私たちを「生け捕り」にする必要があるため、迂闊に発砲できないのだ。
「葛原さん!」
私が叫ぶと、煙の中から葛原が顔を出した。
相変わらずの丸眼鏡に、作業着姿。だが、その手にはバールが握られている。
「遅えぞ、作家先生! サイン会は中止だ、ずらかるぞ!」
「車は!?」
「裏口にワンボックスを用意してある! ……おい、若いの! 壁をぶっ壊せ!」
葛原の指示で、晴天同盟の若者たちが、病院の塀の一部に設置した爆薬を起爆させた。
ドォォン!
爆音と共に塀が崩れ、外の通りへと続く穴が開いた。
そこには、地味な灰色のワンボックスカーがエンジンをかけて待機していた。
「乗れッ!」
私と瑛司、そして葛原が車に飛び乗る。
運転席にいたのは、かつて日昇(にっしょう)県で共に戦った辰田(たつた)組の生き残り、ノリだった。
「お嬢、若頭! ご無事ですか!」
「ノリ! あんたも来てくれたの!?」
「当たり前でさァ! 親父さんの遺言です。『二人を守れ』ってな!」
ノリがアクセルを全開にする。
タイヤが白煙を上げ、ワンボックスカーは崩れた塀の穴から公道へと躍り出た。
背後から、怒号とサイレンが追いかけてくる。
*
車は都内の裏道を猛スピードで疾走していた。
だが、空からはヘリの音が聞こえ、バックミラーには黒塗りのセダンが数台、執拗に食らいついているのが見えた。
米軍か、公安か。
どちらにせよ、今の私たちには逃げ場がない。
「しつこいな……。さすがに国家権力相手の鬼ごっこは分が悪い」
葛原が窓から身を乗り出し、追っ手の車に向けて消火器を噴射した。
白い粉が舞い、先頭のセダンが視界を失って電柱に激突する。
だが、二台目、三台目がすぐにその脇を抜けてくる。
「どうするんですか、葛原さん。このままじゃジリ貧だ」
瑛司が荒い息で尋ねる。彼はシートに深く沈み込み、冷や汗を流していた。
消耗が激しい。これ以上の戦闘は命に関わる。
「アテはある。……だが、そこに行くには『地下』に潜るしかねえ」
「地下?」
「ああ。物理的な意味での地下だ。……首都高の地下トンネル網。あそこならヘリの監視も届かねえし、俺たちの『隠れ家』へのルートがある」
葛原がノリに指示を飛ばす。
「次の入り口から首都高に乗れ! C1(都心環状線)じゃねえ、建設中のルートだ!」
「了解!」
車は急ハンドルを切り、封鎖されているはずの工事用ゲートを強行突破して、薄暗い地下トンネルへと滑り込んだ。
未完成の首都高地下セクション。
コンクリート打ちっぱなしの壁が、ヘッドライトに照らされて流れていく。
ここでようやく、追っ手の姿が見えなくなった。
車内に安堵の空気が流れる。
「……はぁ。まさか、革命の翌週に指名手配犯になるとはな」
葛原がタバコを取り出し、火をつけた。
紫煙をくゆらせながら、彼はバックミラー越しに私たちを見た。
「悪かったな。せっかく世界を救ったのに、こんな泥沼に引き戻しちまって」
「いいえ。……助かりました」
私は瑛司の肩を抱きながら答えた。
「あのまま病院にいたら、私たちは解剖されていたわ」
「全くだ。……葛城(かつらぎ)の野郎、とんだ食わせ物だったな。錦川が死んで空いた権力の椅子に座った途端、アメリカの犬になりやがった」
政治の世界は非情だ。
昨日の英雄は、今日の政治的リスク。
特に、私たちが持つ「獣神化」の力は、平和な日本においては管理不能な爆弾でしかない。
「……これから、どうするつもり?」
私が尋ねると、葛原はニヤリと笑った。
「灯台下暗し、ってな。……東京の地下には、俺たち晴天同盟が半世紀かけて掘り進めた『モグラの巣』がある。そこなら、CIAだろうが公安だろうが手出しはできん」
*
車は複雑な地下迷宮を走り抜け、やがて古びた鉄扉の前で止まった。
そこは、かつての地下鉄の廃駅を利用した、晴天同盟の秘密アジトだった。
湿った空気と、機械油の匂い。
華やかな地上の復興ムードとは無縁の、薄暗い空間。
車を降りた私たちは、迎えに出てきた活動家たちに案内され、奥の居住スペースへと通された。
コンクリートの壁に囲まれた殺風景な部屋だが、ベッドと暖房、そして通信機材は揃っていた。
瑛司がベッドに倒れ込む。
私はすぐに駆け寄り、彼の脈を診た。
弱い。そして速い。
「……無理させたわね」
「これくらい、なんともないですよ」
瑛司は強がるが、その手は震えていた。
私が彼の手を握ると、同調(シンクロ)した魂を通じて、彼の体内の状況が伝わってきた。
燃料タンクは空っぽ。
予備電力だけで動いているような状態だ。
「……お嬢」
瑛司が、天井を見上げたまま呟いた。
「俺たちの賞味期限、切れちゃいましたね」
その言葉が、胸に刺さった。
錦川を倒すためだけに燃やした命。
それが終わった今、私たちは生きているだけで「余計な存在」になってしまったのだ。
「そんなことない」
私は強く否定した。
「私たちは道具じゃない。賞味期限なんて誰にも決めさせない。……生きるのよ、瑛司。どんなに泥水をすすっても、二人で生き延びるの」
その時、部屋のモニターが点灯した。
葛原が入ってきて、リモコンを操作する。
映し出されたのは、地上のニュース番組だった。
『――速報です。本日午後、都内の病院から、テロリスト集団の首謀者である辰田紗矢と鹿角瑛司が逃走しました。政府は、二人が精神的に不安定であり、再び大規模な破壊活動を行う恐れがあるとして、特別指名手配を行いました』
画面には、私と瑛司の写真が表示されている。
「英雄」の文字は消え、「凶悪犯」というテロップに変わっていた。
『また、米政府は日本政府に対し、対バイオテロ特殊部隊「Anti-Beast Force(対獣軍)」の派遣を決定しました。彼らは、逃走した二人の確保、あるいは……』
アナウンサーが一瞬言葉を詰まらせた。
『……無力化を最優先に行動するとのことです』
無力化。
それは、「射殺」の婉曲表現だ。
「……Anti-Beast Forceか」
葛原が忌々しそうに吐き捨てた。
「対人造人間戦のプロフェッショナルだ。南米や中東で、アメリカが極秘裏に開発した生物兵器の失敗作を処理してきた掃除屋(クリーナー)どもだ」
掃除屋。
私たちは、処理されるべきゴミ扱いか。
私は瑛司を見た。
彼は静かに目を閉じ、覚悟を決めたような表情をしていた。
私もまた、腹を括った。
革命は終わった。
これからは、生き残るための戦争(サバイバル)だ。
世界中が敵に回っても、私だけは彼を守り抜く。
そのために、私は再び「ペン」ではなく「牙」を研ぐ。
地下の隠れ家で、私たちは身を寄せ合った。
地上では、私たちの首を狙う狩人たちが、すでに放たれていた。
(第26話 完)
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