第17話:父と娘の晩酌

 勿来(なこそ)の関を突破した私たちは、常磐自動車道を南下し、茨城県内の某所にある廃墟化したドライブインで足を止めた。

 トラックの修理と、隊員の休息のためだ。

 夜の帳(とばり)が下り、広い駐車場には虫の声だけが響いていた。


 私は、トラックの荷台の隅でタブレット端末に見入っていた。

 画面の中で、SNSのタイムラインが奔流のように流れている。


『あの黒い兵士、俺の高校の同級生かもしれない』

『行方不明者リストと照合してる有志がいるぞ。……マジかよ、全員一般人じゃないか』

『政府は説明しろ! 国民を改造人間にしてるって本当なのか!』


 勿来での戦闘中継は、決定的な証拠となって日本中を駆け巡っていた。

 これまで「テロリスト討伐」という錦川のシナリオに酔っていた人々が、冷水を浴びせられたように覚醒し始めている。

 恐怖は怒りへ。疑念は確信へ。

 東京の首相官邸前では、数万人規模のデモが発生しているというニュースもあった。


「……届いたんだ」


 私は安堵の息を吐いた。

 言葉と行動が、分厚いプロパガンダの壁を突き破ったのだ。

 だが、これで勝ったわけではない。むしろ、追い詰められた錦川は何をしてくるか分からない。

 「第二の核実験」というジョーカーを切る前に、私たちが彼の喉元に噛み付かなければならない。


「紗矢。ちょっといいか」


 背後から声をかけられた。

 振り返ると、父・剛(ごう)が立っていた。

 戦闘続きで着流しは汚れ、顔には無精髭が目立つが、その眼光の鋭さは変わらない。手には、一升瓶と、三つの猪口(ちょこ)を持っていた。


「父さん……それ」

「あばら屋の床下からくすねてきた。『銘酒・日昇』の大吟醸だ。……これから死にに行くってのに、素面(しらふ)じゃやってられねえからな」


 父は悪戯っぽく笑うと、駐車場の縁石に腰を下ろし、私を手招きした。


          *


 私は父の隣に座った。

 夜風が心地よい。遠くに見える街の灯りが、平和だった頃の日常を思い出させる。


「瑛司(えいじ)はどうした?」

「……さっきまで寝てたけど、今は車の整備を手伝ってるわ。じっとしてられないみたい」

「フン、あの馬鹿タレが。体がボロボロのくせに、働き者なのは変わらねえな」


 父は猪口に酒を注ぐと、一つを私に渡し、もう一つを自分の手元に、そして最後の一つを空いたスペースに置いた。

 月明かりの下、透明な液体が揺れる。


「……なあ、紗矢。覚えてるか? お前が初めて小説家になりたいって言った時のこと」

「覚えてるわよ。高校二年の進路相談の日」

「ああ。俺は反対したんだよな。『ヤクザの娘が表舞台に出ても、苦労するだけだ』って」


 父は酒をあおり、遠い目をした。

「でも、お前は聞かなかった。『私は言葉で世界を変えたい』なんて、青臭いことを言ってな。……あの時の真っ直ぐな目は、死んだ母さんそっくりだった」


「ごめんね、父さん。結局、変えるどころか、こんな騒動の中心になっちゃって」

「謝るんじゃねえ」


 父の大きな手が、私の頭をポンと撫でた。

「俺は誇りに思ってるんだ。……俺は暴力でしか世の中を渡ってこられなかった不器用な男だ。だが、俺の娘はペン一本で国と喧嘩して、こうして大勢の人間を動かしてる。……大したもんだよ、本当にな」


 父の声が少し震えていた。

 私は涙がこぼれないように、猪口の酒を一気に飲み干した。辛口の酒が、喉を焼くように落ちていく。


「……でも、私は父さんの娘でよかった。この血があったから、今、私は戦えてる」

「違げえねえ」


 父が笑い声を上げた時、ジャリッ、と足音が近づいてきた。

 瑛司だった。

 オイルで汚れた手を拭いながら、少しバツが悪そうに立っている。


「……親父、お嬢。こんなところで宴会ですか」

「おう、噂をすればなんとやらだ。座れ、瑛司」


 父が空けておいたスペースを指差す。

 瑛司は躊躇(ためら)ったが、私の隣に静かに腰を下ろした。

 月光に照らされた彼の髪は、ほとんどが雪のような白銀色になっていた。肌も陶器のように白く、どこか儚げな美しさを帯びている。

 父は何も言わず、瑛司の猪口に波々と酒を注いだ。


「飲め。……これが、今生の別れの杯になるかもしれねえ」

「……縁起でもないこと言わないでくださいよ」


 瑛司は苦笑し、猪口を手に取った。

「いただきます」


 三人は、黙って酒を酌み交わした。

 言葉はいらなかった。

 冷たい夜風の中で、こうして三人で肩を並べているだけで、胸がいっぱいだった。

 まるで、失われたはずの家族団欒が、ここに戻ってきたようだった。


「……瑛司」

 父が口を開いた。

「お前を拾ったのは、十五の時だったな。路地裏で野良犬みてえな目をして、俺にナイフを向けてきやがった」

「はは……恥ずかしい過去です」

「あの時、俺は思ったんだ。こいつはただのチンピラじゃねえ。磨けば光る、いい『角』を持ってるとな」


 父は瑛司の肩を強く叩いた。

「俺の目に狂いはなかった。お前は立派な極道になった。……いや、それ以上の男になった」


 そして、父は真剣な眼差しで私と瑛司を交互に見た。

「いいか、よく聞け。……俺の背中の『昇り龍』は、もう年老いた。これからは若いお前たちの時代だ」


 父は懐から、一振りの短刀を取り出し、瑛司に差し出した。

 白鞘(しらさや)のドス。辰田組の代紋が刻まれている。

 それは、跡目(あとめ)に継承される証。


「親父、これは……」

「受け取れ。……俺になんかあったら、組はお前に任せる。そして何より……」


 父の声が、低く、重くなった。

「紗矢を頼んだぞ。……あいつは気は強いが、中身は泣き虫な文学少女のままだ。お前が支えてやってくれ」


 それは事実上の、娘を託す言葉だった。

 本来なら、結婚式の前夜に言われるような台詞。

 それを、こんな血なまぐさい戦場の片隅で、死を覚悟した男たちの間で交わされていることが、切なくてたまらなかった。


 瑛司は短刀を受け取り、深く頭を下げた。

「……謹んで、お受けします。この命に代えても、お嬢を……紗矢さんを幸せにします」

「おう。……任せたぞ」


 父は満足そうに頷き、残りの酒を一気に飲み干した。

 そして立ち上がり、夜空を見上げた。


「さて、湿っぽい話はここまでだ! 夜が明ければ東京だ。……錦川の野郎に、辰田の意地を見せてやろうじゃねえか」


 父は高らかに笑い、トラックの方へと歩き出した。

 その背中――着流し越しにも分かる、猛々しい昇り龍の気配が、私にはどこか寂しげに見えた。

 まるで、自分の最期を悟っているかのような。


「……お嬢」

 二人きりになった瑛司が、私を呼んだ。

 彼は手の中の短刀を、大切そうに握りしめていた。

「親父、覚悟を決めてますね」

「ええ……。父さん、何か無茶をする気かもしれない」

「俺がさせませんよ」


 瑛司は私の肩を抱き寄せた。

 その体温は低かったが、心臓の音は力強かった。

「俺の命の残りは、全部ここでの戦いのために使うつもりでした。……でも、親父にあんなこと言われちゃ、生き残らなきゃいけなくなっちまった」


 彼は白銀の髪を風になびかせ、優しく微笑んだ。

「生きましょう、お嬢。……勝って、三人で日昇に帰りましょう」

「うん。……帰ろう、絶対に」


 私は彼の肩に頭を預けた。

 嘘でもいい。今はその言葉に縋(すが)りたかった。


 東の空が、微かに白み始めていた。

 夜明け。

 それは希望の光か、それとも破滅へのカウントダウンか。

 決戦の地、東京まであと五十キロ。

 私たちの旅は、いよいよ決戦の地へと突入する。


(第17話 完)

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