第12話:奪われた土地、枯れる命
山中の拠点に戻った夜、そこには重苦しい沈黙が支配していた。
勝利の歓声も、明日への希望を語る声もない。
聞こえてくるのは、雨音と、啜(すす)り泣く声だけだった。
「……俺は、俺は人殺しだ……」
洗い場の隅で、若い組員がタワシで自分の手を擦り続けていた。皮膚が剥け、血が滲んでも、彼は止めようとしない。
「あの化け物……俺が撃った女の化け物、最期に『ありがとう』って言ったんだ。……俺の母ちゃんと同じ歳くらいの女だった。俺は……ッ!」
誰も彼を止めることはできなかった。
誰もが同じ罪の意識に苛(さいな)まれていたからだ。
私たちが今日殺したのは、敵兵ではない。政府に誘拐され、無理やり兵器に改造された一般市民だ。被害者を殺さなければ生き残れないという極限の選択が、私たちの精神(モラル)を根底から破壊しようとしていた。
*
私は医務室のベッドの傍らに座り、昏睡状態の瑛司(えいじ)を見つめていた。
彼の呼吸は浅く、不規則だった。
そして何より、私の目を覆いたくさせたのは、彼の髪だった。
昨夜までは黒々としていた彼の髪の半分以上が、雪のような白銀色に変わっていた。
肌の艶も失われ、まるで数十年分の時間を一瞬で奪われたかのようにやつれている。
「……瑛司」
私は彼の冷たい手に触れた。
背中の「救世観音」の力を送ろうとする。だが、反応がない。
外傷はないのだ。彼が失ったのは肉体の一部ではなく、「生命の灯火」そのものだから。私の治癒能力でも、燃え尽きた蝋燭(ろうそく)の芯を戻すことはできない。
(私のせいだ……)
後悔が黒いタールのように胸に広がる。
私が彼を巻き込んだ。私が「戦おう」と言ったから、彼は私のために寿命を差し出した。
このまま戦い続ければ、彼は確実に死ぬ。
遠くない未来、彼は灰になって崩れ落ちるだろう。
「……泣かねえでくださいよ、お嬢」
不意に、掠(かす)れた声がした。
瑛司が薄っすらと目を開けていた。その瞳だけは、以前と変わらず優しく、私を映していた。
「瑛司……! 気がついたの?」
「ええ。……ちょっと、長い夢を見てました。昔、お嬢と二人で神社の縁側で昼寝した夢です」
彼は笑おうとして、顔を歪めた。体を起こそうとするが、力が入らないようだ。
私は慌てて彼の体を支え、枕を直した。
その時、彼の視線が窓ガラスに映る自分の姿――白髪の自分に向けられた。
「……へえ。白髪染め、要らなくなっちまいましたね」
「冗談言わないでッ!」
私は声を荒らげてしまった。
「鏡を見れば分かるでしょう!? あなたはもうボロボロなの! これ以上戦えば、本当に死んでしまう! ……もういい。もういいから、あなたはここで休んでて」
「嫌です」
瑛司は即答した。弱々しい声だったが、そこには岩のような頑固さがあった。
「俺が休んだら、誰がお嬢の背中を守るんですか。……あの鹿になれるのは、俺だけだ」
「私が戦うわ! 私一人でも……」
「無理だ。お嬢の矢は強力ですが、敵の懐に入られたら脆い。俺という『足』と『盾』がなきゃ、お嬢だって死ぬ」
瑛司は私の手を強く握りしめた。
その手の冷たさが、現実を突きつけてくる。
「お嬢。……俺の命は、俺が納得して使ってるんです。あそこで化け物にされた人たちとは違う。俺は、俺の意志で、愛する女のために命を燃やしてる。……これ以上の幸福はありませんよ」
彼の言葉は、あまりに純粋で、残酷だった。
自己犠牲という名の暴力的な愛。
それを止める権利は、命を救われている私にはないのかもしれない。
「……馬鹿。大馬鹿よ、あなたは」
私は彼の胸に顔を埋めて泣いた。
彼は痩せた腕で、私を抱きしめ返してくれた。
その心音は弱々しかったが、確かに動いていた。
一つ一つの鼓動が、砂時計の砂が落ちる音のように聞こえた。
*
深夜。
父・剛(ごう)と晴天同盟の葛原(くずはら)が、深刻な顔で地図を囲んでいた。
私も目を赤く腫らしたまま、その輪に加わった。
「……状況は最悪だ」
葛原が煙草の吸い殻を揉み消しながら言った。
「敵の人造獣部隊は、一度撃退してもすぐに補充される。トラックの動きを偵察隊が追跡したところ、日昇港のコンビナート地帯にある化学工場……いや、『人間加工場』からピストン輸送されているようだ」
「人間加工場……」
その響きに吐き気がした。
かつて地域の産業を支えていた工場が、今は国民を怪物に変えるラインとして稼働しているのだ。
「真正面からやり合っても勝ち目はねえ」
父が腕組みをして唸る。
「こっちの弾薬は底を尽きかけてる。それに、組の若い衆の精神(メンタル)が限界だ。……殺しても殺しても湧いてくる『被害者』を相手にするのは、身を斬られるより辛え」
膠着状態。いや、緩やかな敗北への道。
このまま手をこまねいていれば、私たちは圧殺されるか、罪の意識で自壊する。
「……元を断つしかありません」
私が口を開くと、二人の視線が集まった。
「その『加工場』を叩くんです。これ以上、怪物が作られる前に」
「言うは易(やす)しだがな」
葛原が首を振る。「工場地帯は要塞化されているはずだ。それに、もし工場内にまだ加工前の民間人がいたらどうする? 工場ごと爆破すれば、それこそ大量虐殺だ」
ジレンマ。
工場を破壊しなければ、無限に兵器が送り込まれる。
破壊すれば、中にいる無辜(むこ)の人々を巻き込む可能性がある。
「……それでも、やるしかねえだろうな」
父が静かに言った。その目は、修羅の決断を宿していた。
「地獄に落ちるのは俺たちだけでいい。……これ以上、あの腐った政権に国民をオモチャにさせるくらいなら、俺たちが引導を渡してやるのが慈悲ってもんだ」
父の言葉に、私は頷いた。
綺麗なままではいられない。
革命とは、誰かの返り血を浴びて進む泥道なのだ。
その時、入り口の扉が開いた。
立っていたのは、瑛司だった。
彼はよろめきながらも、自分の足で立ち、背筋を伸ばしていた。
「……俺も、行きます」
「瑛司! 寝てろと言ったろ!」
父が怒鳴るが、瑛司は引かなかった。
「これが最後の仕事になるかもしれません。……だったら、尚更ここでのたれ死ぬわけにはいかねえ」
彼は私を見た。
「工場の破壊、俺に任せてください。……俺の『角』なら、鉄骨だろうが原子炉だろうが粉砕できる」
彼の目には、死を覚悟した者特有の、静謐な光が宿っていた。
止めても無駄だ。
彼はもう、自分の命を「使い切る」と決めている。
「……分かったわ」
私は唇を噛み締め、瑛司の前に立った。
「でも、条件がある。……私があなたに乗るんじゃない。あなたが私の指示に従うのでもない。……二人で一つよ」
「え?」
「私の『観音』の力で、あなたの生命力の消耗を少しでも肩代わりする。……できるかどうか分からないけど、私の魂とあなたの魂をリンクさせるの」
それは賭けだった。
「人鹿一体」のさらに先。精神的な同調(シンクロ)。
もし失敗すれば、二人とも廃人になるかもしれない。
だが、瑛司を一人で死なせるよりはマシだ。
「……お嬢らしいや」
瑛司は困ったように笑い、そして深く頭を下げた。
「謹んで、お供します」
*
作戦は、明朝未明。
目標は、日昇臨海工業地帯、第四プラント。通称「ファーム」。
そこは、この世で最も冒涜的な工場。
私たちは出発の準備を整えた。
生き残った組員たちも、活動家たちも、涙を拭いて立ち上がっていた。
罪悪感は消えない。だが、それ以上に「これ以上あんな悲劇を生ませてたまるか」という義憤が、彼らを突き動かしていた。
「総員、聞け!」
私は全員の前で声を張り上げた。
「私たちは人殺しだ。その罪は、一生消えない。……だからこそ、私たちは勝たなければならない! 私たちが流した血と、奪った命の意味を、正義に変えるために!」
「「「応ッ!!」」」
野太い喚声が夜の山に響く。
それは絶望の淵からの咆哮だった。
私は瑛司の隣に立った。
白髪交じりの彼の横顔は、以前よりも大人びて、そして神々しく見えた。
私たちはもう、引き返せない。
この身が朽ち果てるまで、走り続けるしかないのだ。
東の空が、血の色に染まり始めていた。
決戦の地、地獄の工場へと、私たちは進軍を開始した。
(第12話 完)
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