第7話:人鹿一体
朝靄(あさもや)が立ち込める丘陵地帯に、突如として現れた青白い光の巨獣。
体高五メートル超。建物をも見下ろす巨大な雄鹿の出現に、完全武装した自衛隊員たちの間に動揺が走った。
「な、なんだあれは! 未確認生物!? 情報にないぞ!」
「バカな、ホログラムか何かか? あんな巨大な生物が実在するわけが……!」
無線機から飛び交う、悲鳴に近い交信音。
スコープ越しに見るその姿は、生物学的な常識を逸脱していた。筋肉の繊維一本一本が光の粒子で構成されているかのように輝き、頭部の巨大な角は、それ自体が鋭利なクリスタルの剣のようだ。
『総員、攻撃許可! 対象はテロリストの新型兵器と断定! 撃て、撃ち落とせぇッ!』
指揮官のヒステリックな命令が下る。
七四式戦車の105mmライフル砲が火を噴き、攻撃ヘリ「コブラ」のチェーンガンが唸りを上げた。
轟音と硝煙。
数多の砲弾が、光の巨体へと吸い込まれていく。
だが。
『グオォォォッ!』
砲煙の中から現れた鹿角(かづの)瑛司(えいじ)――獣神化した巨鹿の体には、傷一つ付いていなかった。
青白い燐光(りんこう)が一種のエネルギーシールドとなり、物理的な衝撃を拡散・吸収してしまっているのだ。
その光景に、隊員たちは戦慄した。
これは戦争ではない。未知の災害だ。
瑛司が動いた。
巨体とは思えぬ俊敏さで、アスファルトを蹴り砕きながら突進する。その速度は、時速百キロを優に超えていた。
「来るぞォォォッ! 回避ッ!」
先頭の戦車がバックしようとするが、間に合わない。
瑛司の巨大な角が、戦車の正面装甲に突き刺さった。
金属がひしゃげる嫌な音。
瑛司はそのまま首を跳ね上げ、重さ三十八トンもある鉄の塊を、まるでオモチャのように宙へと放り投げた。
ガシャァァァンッ!
裏返しになった戦車が地面に叩きつけられ、キャタピラが空しく空転する。
続いて二両目、三両目。
瑛司は止まらない。戦車の隊列に突っ込み、角で突き上げ、蹄(ひづめ)で踏み潰す。
それは一方的な蹂躙(じゅうりん)だった。最新の近代兵器が、神話の獣の前では無力な鉄屑に変えられていく。
「瑛司、乗せて!」
辰田組の庭先から、紗矢が駆け出した。
トレンチコートを翻し、暴れまわる巨鹿の側面へと併走する。
普通の人間なら蹄に踏み潰されて終わりだが、紗矢には確信があった。彼が自分を傷つけるはずがないと。
紗矢の意図を察した瑛司が、速度を緩め、スッと片膝を折って体勢を低くした。
まるで王女を馬車に迎える騎士のような、洗練された動作。
紗矢はその背中――青白い光の鬣(たてがみ)が生えた強靭な背へと飛び乗った。
熱い。
瑛司の体温が、トレンチコート越しにも伝わってくる。
それは獣の熱気であり、同時に、彼が命を燃やしている証でもあった。
「行くわよ、瑛司。……私たちから居場所を奪おうとする奴らに、思い知らせてやるの」
紗矢は瑛司の首筋にある太い毛を、手綱代わりに強く握りしめた。
瑛司が短く嘶(いなな)き、再び加速する。
風圧が凄い。だが、紗矢の体は吸い付くように安定していた。二人の呼吸が完全に同調し、まさに「人鹿一体(じんかいったい)」となっていた。
「ターゲット確認! 獣の背中に、人影! 女だ!」
「あの女が本体か!? 照準、女に合わせろ!」
上空の攻撃ヘリが、ターゲットを紗矢に変更した。
機首のガトリングガンが火を噴き、雨のような弾丸が紗矢に襲いかかる。
「チッ、ハエがうるせえな」
地上では、父・剛(ごう)が刀を杖に、仁王立ちで戦況を見守っていた。
生き残った組員たちも、呆気にとられながらも、お嬢と若頭の勇姿に快哉(かいさい)を叫んでいる。
紗矢は、迫りくる弾幕を見ても動じなかった。
彼女は鹿の背中でスッと立ち上がり、足でバランスを取りながら、何も持っていない両手を虚空に構えた。
(イメージしろ。父さんが彫ってくれた、この背中の力を)
意識を背中に集中させる。
熱い。救世観音の刺青が、ドクンドクンと脈打ち、まるで別の心臓が埋め込まれたかのように熱を発している。
――衆生(しゅじょう)を救うための、慈悲の力。
――だが、悪を挫(くじ)くための、方便としての暴力。
紗矢が右手で、見えない弓の弦(つる)を引き絞る動作をした瞬間。
カァァァァッ!
彼女の背中から黄金色の光が噴出し、それが頭上で収束して、巨大な光の和弓を形成した。
さらに、その弦には、太陽の欠片のように眩い光の矢がつがえられている。
ヘリのパイロットたちが、あまりの眩しさに目を覆う。
「……堕ちろ」
紗矢が冷徹に呟き、指を離した。
ヒュンッ!
放たれた一本の光矢は、空中で枝分かれし、数十本のホーミングレーザーのように拡散した。
それはヘリの回避機動を許さず、正確にローターとエンジンを捉えた。
ドォォォォォンッ!
空中で三機のヘリが同時に爆発し、火だるまになって墜落していく。
残った地上の戦車部隊も、瑛司の突進によってすでに壊滅状態だった。
ものの十分足らず。
自衛隊の一個中隊は、たった二人の「異能者」によって、完全に無力化されたのだ。
静寂が戻る。
燃え上がる戦車の残骸と、墜落したヘリの煙だけが、戦闘の凄まじさを物語っていた。
瑛司がゆっくりと辰田組の庭先に戻り、紗矢を降ろすために身を屈めた。
紗矢が地に足をつけた瞬間、瑛司の巨体が光の粒子となって霧散し、元の人間の姿に戻った。
彼は全裸で、その場に膝から崩れ落ちた。
全身から大量の汗が噴き出し、肩で荒い息をしている。
「瑛司! 大丈夫!?」
紗矢が駆け寄り、自分のトレンチコートを彼にかける。
瑛司の顔色は蒼白で、その黒髪の一部が、まるで老婆のように白く変色していた。
命を削った代償。それが、これほど早く、目に見える形で現れるとは。
「……平気、です。お嬢に、怪我は?」
「馬鹿! 自分の心配をしなさいよ!」
紗矢は涙目で彼を叱りつけた。けれど、その手は優しく彼の汗を拭っていた。
父・剛が歩み寄ってきた。その表情は厳しい。
「見事な初陣だったが、喜んでる暇はねえぞ。奴らは必ず、もっと大きな戦力で報復に来る」
「……分かってるわ」
「ここも、もう潮時だ」
父が愛おしそうに、古びた屋敷を見上げた。代々受け継いできた、辰田組の看板。
だが、土地に縛られて全滅しては元も子もない。
「山へ入るぞ。あそこなら地の利がある。しばらく身を隠して、体勢を立て直すんだ」
父の決断に、生き残った数名の組員たちが無言で頷いた。彼らの目には、もはや絶望の色はない。
彼らは見たのだ。自分たちの「お嬢」と「若頭」が起こした奇跡を。
この力があれば、国に勝てるかもしれないという希望の光を。
「行くぞ。必要なものだけ持って、すぐに発つ!」
朝霧の中、辰田組の一行は住み慣れた屋敷を後にした。
それは逃亡ではない。
国という巨大な敵に立ち向かうための、長い長いゲリラ戦の始まりだった。
(第7話 完)
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