第6話:刺青の儀式

 土蔵の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 あるのは、埃とカビの匂い、そして数百年の時を超えて解き放たれた「神の血」――古代インクの鉄錆のような芳香だけだ。


 父・剛(ごう)は、祭壇の前に置かれた座布団に座り、無言で道具を整えていた。

 桐箱から取り出されたのは、機械式のタトゥーマシンではない。竹の柄(え)の先に無数の針を束ねた、伝統的な手彫りの道具「鑿(のみ)」だ。

 傍らには、黒曜石の壺に入った漆黒の液体が、蝋燭の火を映して鈍く揺らめいている。


「……脱げ、紗矢」


 父の声は低く、厳かだった。それは娘に対する父親の声ではなく、一人の彫師(アーティスト)としての声だった。

 私は頷き、泥と雨で汚れたボロボロのトレンチコートを脱ぎ捨てた。

 その下のブラウスも、キャミソールも、躊躇なく脱ぎ去る。

 蔵の冷気が、火照った肌を刺した。


 私は上半身裸になり、父が用意した「特殊な布」を手に取った。

 それは、組の女性たちが刺青を入れる際に使用する、医療用のシリコン素材で作られた粘着質のインナーだ。形状はいわゆるヌーブラに近いが、より厚手で、胸の膨らみを完全に覆い隠すことができる。

 これを胸に貼り付けることで、前面の露出は最小限に抑えつつ、背中から肩、脇腹にかけての皮膚を完全に露出させることができるのだ。


 ペタリ、と冷たい感触が胸に張り付く。

 私は髪を頭の上で束ね、父に背を向けて座布団に正座した。

 白磁のような背中が、蔵の薄暗がりの中に浮かび上がる。


「……瑛司。お前は入り口を見張ってろ」

「……はい」


 瑛司(えいじ)の声が上擦っていた。

 彼は入り口の戸に背を預け、私の方を見ないようにしていた。だが、その気配が痛いほどにこちらを意識しているのが分かる。

 恥ずかしさはない。

 これから私の背中に刻まれるのは、ただの絵ではない。国と戦うための「兵器」であり、彼らを守るための「誓い」なのだから。


「いくぞ。……痛えぞ」


 父が鑿(のみ)にたっぷりとインクを含ませた。

 そして、私の左肩口に針先を当てる。


 ザリッ。


 皮膚が裂ける音。

 熱した鉄柱を押し付けられたような激痛が走った。


「っ……!」

「声を出してもいい。だが、動くなよ」


 父の手は容赦がなかった。

 ザリッ、ザリッ、ザリッ。

 独特のリズムで、針が皮膚を突き破り、真皮層にインクを送り込んでいく。

 それは通常の刺青の痛みとは異質だった。

 インクが体内に入った瞬間、まるで生き物のように血管を駆け巡り、心臓がドクンと大きく跳ねるのだ。

 熱い。背中が焼けるように熱い。


(これが、古代文明の力……)


 父が彫り進める図柄は、「救世観音(ぐぜかんのん)」。

 衆生(しゅじょう)の苦しみを救うために現れる、慈悲の菩薩。

 だが、父の彫る観音は、ただ優しいだけではない。その目には、悪を滅ぼすための憤怒の炎が宿っているように思えた。


 痛みの中で、私の意識は鮮明になっていった。

 走馬灯のように、これまでの人生が駆け巡る。

 『売国奴の娘』といじめられた幼少期。

 小説家としてデビューした時の喜び。

 そして、その夢を踏みにじられた屈辱。


 ――全部、燃やしてしまえ。


 心の中で、誰かが囁いた。

 インクが私の血と混ざり合い、私の「怒り」を燃料にして変質していく。

 今まで私が、言葉という檻(おり)に閉じ込めていた激しい感情が、背中の観音像に命を吹き込んでいくのを感じた。


「……いい肌だ」


 一時間ほどが経過した頃、父がポツリと漏らした。

 額には玉のような汗が浮いている。

「インクの馴染みがいい。まるで、この肌がずっと待っていたみてえだ。……紗矢、お前はやっぱり、俺の娘だな」


 父の声に、微かな誇らしさが滲んでいた。

 最後に、観音の瞳に「点睛(てんせい)」が打たれた瞬間、背中からカッと黄金色の光が溢れ出した。


「う、あぁぁぁ……ッ!」


 私はたまらず声を上げた。

 痛みが快楽へと変わり、全身に力が漲(みなぎ)る。

 背中が熱い。まるで背後に、本物の観音様が重なったような重圧感。


「完成だ」


 父が鑿を置き、荒い息を吐いた。

 私は肩で息をしながら、ゆっくりと立ち上がった。

 全身から湯気が立っている。

 瑛司が恐る恐る振り返り、そして息を呑んだ。


「……お嬢」


 彼の瞳に、黄金色に輝く私の背中が映っている。

 闇の中で脈動する救世観音。その神々しさと、露わになった白い肌の妖艶さが混じり合い、瑛司は言葉を失っていた。


「綺麗です……。この世のものとは思えないほど」


 その言葉は、私への最大の賛辞だった。

 私は落ちていた自分のトレンチコートを羽織った。ボタンは留めない。インナーで隠された胸元と、光り輝く背中が見え隠れする。

 もはや、ただの作家ではない。

 私は「修羅」になったのだ。


「次は俺の番だ、親父」


 瑛司がシャツを脱ぎ捨て、座布団に座った。

 鍛え上げられた逆三角形の背中。そこには、数多の抗争で刻まれた古傷が残っている。


「瑛司。お前に入れるのは『雄鹿(おじか)』だ。辰田家を守護し、神の使いとして邪悪を角で討つ獣だ」

「望むところです」


 父が再び鑿を握る。

 瑛司は、私のように声を上げることはなかった。

 ただ静かに、歯を食いしばり、痛みに耐えていた。

 その背中を見つめながら、私は気づいた。

 彼が耐えているのは、ただの痛みではない。私を守るために「人であることを捨てる」という、重い覚悟の重みなのだと。


 ザリッ、ザリッ。

 静寂の中に、針の音だけが響く。

 瑛司の背中に、巨大な角を持つ雄鹿が浮かび上がってくる。

 その鹿の瞳は、瑛司と同じように、どこか悲しく、そして優しかった。


(瑛司……)


 私は彼の広い背中に、そっと手を伸ばしたくなった。

 幼い頃、いじめられて泣いていた私を、いつもおんぶしてくれた背中。

 大人になってからは、若頭として一歩引いた場所から見守ってくれていた背中。

 その背中が今、私を守るために怪物になろうとしている。


「……瑛司」

「はい」

 彼は背中を向けたまま、短く答えた。

「死なないでね。絶対に」

「死にませんよ。……お嬢が、革命の物語を書き終えるまでは」


 その言葉に、胸が詰まる。

 彼は知っているのだ。このインクの力が、使用者の生命力を削る諸刃の剣であることを。

 それでも彼は、私のために迷わずその力を受け入れている。


 やがて、瑛司の背中からも、青白い燐光(りんこう)が立ち上った。

 雄鹿の刺青が完成したのだ。

 父はその場にドサリと倒れ込んだ。精魂尽き果てた様子だが、その顔には満足げな笑みが浮かんでいた。


「……できたぞ。二人とも、最高の仕上がりだ」


 その時だった。


 ズズズズズ……。


 地響きが、蔵の床を揺らした。

 さっきまでの、暗殺者たちの足音とは桁が違う。

 もっと重く、巨大な質量が、地面を削りながら近づいてくる振動。

 キャタピラの音だ。


「来やがったな」

 父が刀を杖代わりにして立ち上がった。

「夜明けだ。……自衛隊のお出ましだぞ」


 私たちは蔵を出た。

 雨は上がり、東の空が白み始めていた。

 朝霧の向こう、屋敷を取り囲む丘陵地帯に、無数の影が浮かび上がっていた。

 深緑色に塗装された、陸上自衛隊の七四式戦車。

 その数、およそ十両。

 さらに上空には、攻撃ヘリ「コブラ」の編隊が、サメのようなシルエットで旋回している。


「……本気かよ」

 生き残った組員たちが、絶望の色を浮かべてへたり込んだ。

 無理もない。

 たかがヤクザの事務所一つを潰すのに、戦争でも始める気のような戦力だ。

 これこそが、錦川政権の本性。

 不都合な真実は、圧倒的な暴力で跡形もなく消し去る。


 戦車の一両が、砲塔をゆっくりとこちらに向けた。

 拡声器から、無機質な警告音が響く。


『警告する。建物内にいるテロリストに告ぐ。直ちに投降せよ。さもなくば、建物ごと殲滅(せんめつ)する』


 投降などすれば、即座に殺されて闇に葬られるだけだ。

 私はトレンチコートの襟を正し、一歩前へ出た。

 父がニヤリと笑い、瑛司が私の横に並ぶ。


「行くぞ、瑛司」

「御意」


 瑛司がシャツを脱ぎ捨てた。

 朝日に照らされたその背中で、雄鹿の刺青が強烈な光を放つ。

 ドクン、ドクンと、彼の心臓の音が聞こえるようだった。


「――獣神化(ビースト・モード)」


 彼が低く呟いた瞬間、世界が反転した。

 瑛司の体から青白い光の奔流が噴き出し、彼の肉体が内側から弾けるように膨張した。

 骨がきしむ音。筋肉が隆起する音。

 それは変身というよりも、爆発に近かった。


『グオォォォォォォッ!!』


 光が晴れた時、そこに立っていたのは人間ではなかった。

 屋根よりも高い、巨大な角を持つ光の鹿。

 その威容に、自衛隊員たちの動揺が伝わってくる。


「……さあ、始めましょう」


 私は、目前の巨鹿を見上げ、その背中へと手を伸ばした。

 背中の観音が熱く疼いている。

 これは、私たちがこの国に叩きつける、最初で最大の「否(ノー)」だ。


 伝説の幕開けとなる戦いが、今まさに始まろうとしていた。


(第6話 完)

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