第5話:秘められた遺産

 雨は激しさを増し、古びた日本家屋の屋根を叩き続けていた。

 その雨音に紛れて、屋敷の周囲には死の気配が濃厚に漂い始めていた。


「瑛司、明かりを消せ。若いの、お前らは裏口と縁側を固めろ。ネズミ一匹通すなよ」


 剛(ごう)の低い声が飛ぶと、組員たちは無駄のない動きで散開した。

 部屋の照明が落とされ、屋敷は深い闇に包まれる。

 私は父の背中を追い、母屋の裏手にある土蔵へと走った。重厚な漆喰の扉には、辰田家の家紋である「丸に三つ柏」が刻まれている。


「……父さん、蔵に何があるの?」

「俺たちの先祖が残した、厄介な代物だ」


 父は懐から古びた鍵を取り出し、錠前を外した。

 重い扉が軋んだ音を立てて開くと、カビと埃、そして何やら独特の――墨汁と鉄が混ざったような鋭い匂いが鼻をついた。

 瑛司が懐中電灯で中を照らす。

 そこに並んでいたのは、骨董品や掛け軸といったありふれた財産ではなかった。


 白鞘(しらさや)に収められた数振りの日本刀。

 そして、部屋の中央にある祭壇のような場所に、桐の箱が恭(うやうや)しく安置されていた。


「辰田家はな、明治のころからこの日昇(にっしょう)の地で、あるものを守ってきた一族だ」


 父は桐の箱を手に取り、静かに蓋を開けた。

 中に入っていたのは、数本の古めかしい彫り物用の針と、黒曜石で作られた小さな壺だった。

 壺の中には、闇よりもなお深い、ねっとりとした液体が揺れている。


「これは……墨?」

「ただの墨じゃねえ。この地方の地下深く、古代の遺跡から湧き出たとされる『神の血』だ。先代からは、決して使うな、使えば人が人でなくなるぞと厳命されていたが……」


 父は自嘲気味に笑い、その壺を見つめた。

「国が核実験なんかで土地を汚しちまったせいで、封印が揺らいじまったのかもしれねえな。……紗矢、お前が持ち帰ったデータにもあったはずだ。奴らは地下遺跡の力を軍事利用しようとしているとな」

「ええ。……まさか、それがこれなの?」

「ああ。奴らが科学で再現しようとしている力の『オリジナル』がここにある」


 その時だった。


 ガシャァァァァンッ!!


 母屋の方角で、激しいガラスの破砕音が響き渡った。

 続いて、パン、パン、と乾いた発砲音。

 組員の悲鳴が聞こえる。


「来やがったか」


 父の目が、瞬時に極道のそれへと変わった。

 彼は棚から二振りの日本刀を掴み取ると、片方を瑛司に放り投げた。


「瑛司! チャカを持った相手だ、間合いに入られる前に斬れ! 紗矢を守りながら蔵を出るぞ!」

「御意!」


 瑛司が鞘を払う。

 暗闇の中で、白刃が冷たい月光のように煌めいた。

 その横顔には、恐怖など微塵もない。あるのは、主君と愛する女性を守らんとする、鋼のような覚悟だけだった。


          *


 母屋に戻ると、そこはすでに戦場だった。

 黒いレインコートを着た男たちが、土足で畳を踏み荒らし、無差別に発砲していた。彼らは警察ではない。プロの暗殺部隊(ヒットマン)だ。


「女はどこだ! データごと消せ!」


 リーダー格らしき男が叫び、サブマシンガンを乱射する。

 襖が蜂の巣になり、木屑が舞う。

 私は父の背中に庇われながら、廊下を走った。


「そこかァ!」


 角から飛び出してきた一人の男が、私に銃口を向ける。

 死の予感に体が竦(すく)む。

 だが、引き金が引かれるより早く、黒い旋風が私の前を駆け抜けた。


「――お嬢には、指一本触れさせん」


 ザンッ。

 肉を断つ鈍い音。

 瑛司だった。

 彼がすれ違いざまに放った一閃が、男の手首を銃ごと切り落としていた。

 男が絶叫を上げて転げ回る。瑛司は振り返りもせず、返す刀で男の首筋に峰打ちを叩き込み、意識を刈り取った。


「瑛司、すごい……」


 私は息を呑んだ。

 普段の彼は、鹿肉の処理が得意な、寡黙で優しい青年だ。

 だが今、目の前にいるのは「修羅」そのものだった。

 返り血を浴びた頬。獲物を狙う猛獣のような瞳。

 彼はまだ「獣神化」などしていない。生身の人間だ。それなのに、銃を持ったプロの暗殺者を圧倒している。


「右だ! 親父、右から三匹来るぞ!」


 瑛司の警告に、父が反応する。

 父は老体とは思えぬ身のこなしで畳の上を滑り、三人の男たちの懐に飛び込んだ。

 剛剣一閃。

 先頭の男の鎖骨を砕き、二人目の腹を柄(つか)で突き上げ、三人目の足を払って転倒させる。


「舐めんじゃねえぞ、ガキどもが! こちとら昭和の時代から修羅場くぐってんだよ!」


 父の怒号が轟く。

 辰田組の生き残りたちも、木刀やバットを手に必死に応戦していた。彼らは武器の差を、地の利と気迫でカバーしていた。

 ここは彼らの家だ。

 自分たちの居場所を、これ以上国に奪われてたまるかという意地が、彼らを突き動かしている。


 十分ほどの乱戦の末、屋敷に侵入した十数名の暗殺者たちは、全員が床に伏していた。

 静寂が戻る。

 荒い息遣いと、雨音だけが残された。


「……ふぅ。体が鈍ったな」


 父が刀の血糊(ちのり)を懐紙で拭いながら呟く。

 瑛司が素早く生存者の一人を引っ張り起こし、喉元に切っ先を突きつけた。


「誰の差し金だ。吐け」

「ひっ、ひぃ……! 言えない、言ったら殺され……」

「言わなくても殺すぞ。……俺は気が短いんでな」


 瑛司が刀に力を込めると、男の首筋から血が滲む。

 男は泣きそうな顔で叫んだ。


「こ、公安の特務班だ! 俺たちは先遣隊だ……本隊が来る! 夜明けと共に、自衛隊の一個中隊がここを更地にしに来るんだ!」


「……自衛隊だと?」

 私が思わず声を上げる。

 一地方のヤクザ事務所を潰すのに、軍隊を動かすというのか。

 それほどまでに、私が持ち出したデータ――地下核実験の証拠は、政権にとって致命的なものなのだ。


「戦車も来る……お前らなんて、ミンチにされるぞ……」

 男は震えながらそう言い残し、気絶した。


 瑛司は男を放り捨て、父を見た。

「親父。どうしますか。逃げるなら今のうちですが」

「逃げ場なんざねえよ。この一帯はすでに封鎖されてる」


 父は忌々しそうに舌打ちをし、破れた障子の隙間から外を睨んだ。

 遠くの空が、不気味に赤く染まり始めている気がした。

 夜明けまで、あと数時間。

 それが、私たちが生きられる残りの時間だ。


「……やるしかねえな」


 父は決意を固めたように、私の肩を掴んだ。

「紗矢。覚悟はいいか」

「え?」

「生身じゃ戦車には勝てねえ。……だが、あの蔵にあった『墨』を使えば、あるいは勝機があるかもしれねえ」


 父の視線が、私の背中に注がれる。

「お前の背中は綺麗だ。傷一つねえ、真っ白なキャンバスだ。……そこに、俺が墨を入れる。お前を作家としてではなく、修羅として生まれ変わらせるための儀式だ」


 刺青を入れる。

 それは、ヤクザの世界に生きる者としての証。一度入れれば、二度とカタギの世界には戻れない「烙印」でもある。

 純文学作家として生きてきた私が、その道を自ら閉ざすことになる。


 私は、震える手を握りしめた。

 恐怖はある。

 でも、それ以上に、心の奥底で燃え上がるものがあった。

 内海さんの無念。父の怒り。そして、私を守るために血を流して戦う瑛司の背中。

 彼らを守れるなら。この理不尽な国に一矢報いることができるなら。


「……やって、父さん」


 私は顔を上げ、父を真っ直ぐに見つめ返した。

「私はもう、ただの作家には戻らない。……この背中を、あなたたちのために使う」


「……よく言った」

 父は満足そうに頷き、瑛司に向き直った。


「瑛司。お前にも入れてやる。辰田組代々の象徴、『鹿』の墨をな」

「有難き幸せ」

 瑛司は深く頭を下げた。「お嬢と同じ痛みを刻めるなら、本望です」


 外では雨が止み始めていた。

 だが、それは嵐の終わりではない。

 より巨大な、鋼鉄の嵐が訪れる前の、束の間の静寂だった。


 私たちは蔵へと戻る。

 血とインクの儀式が、始まろうとしていた。


(第5話 完)

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