第4話:父の元へ
肺が焼けるように熱い。
吸い込む酸素よりも、吐き出す恐怖の方がずっと多い気がした。
私は日昇(にっしょう)県の沿岸部に広がる防風林の中を、獣のように四つん這いになりながら進んでいた。
降りしきる雨は、夜の気温低下と共に氷のような冷たさを帯びていた。高級なトレンチコートは泥と茨(いばら)で無残に引き裂かれ、泥水に濡れたパンプスはとうの昔にどこかへ脱ぎ捨ててしまった。
裸足の裏に、枯れ枝や石が食い込む。痛い。けれど、止まれば殺される。
(こっちで、合ってるはず……)
視界が雨で霞む中、私は記憶の地図を必死に手繰り寄せた。
ここは、子供の頃に瑛司(えいじ)とよく遊んだ森だ。
『お嬢、こっちだ。この獣道を行けば、誰にも見つからずに海岸まで出られる』
少年の日の瑛司の背中が、幻影となって私を導いているようだった。
背後からは、まだ時折、男たちの怒号と懐中電灯の光がちらついていた。
だが、彼らは都会の人間だ。この複雑に入り組んだ松林と、ぬかるんだ足場には慣れていない。距離は少しずつ開いているはずだ。
一時間、あるいは二時間走り続けただろうか。
唐突に視界が開けた。
森を抜け、古いアスファルトの道に出た。街灯はほとんど消えかかり、点滅する頼りない光が、ゴーストタウンとなった町を照らし出している。
道路脇には「帰還困難区域につき立ち入り禁止」の看板が錆びついて倒れていた。
その向こう側、小高い丘の上に、その屋敷はあった。
瓦屋根の重厚な日本家屋。かつては威風堂々とした構えで地域を睨み下ろしていた「辰田組」の本家。
けれど今のその姿は、まるで墓標のように静まり返っていた。
白壁は所々剥がれ落ち、自慢だった日本庭園は雑草が生い茂り、主の苦境を無言で物語っている。
「……着いた」
安堵で膝から力が抜ける。
私は最後の力を振り絞り、長く続く石段を登った。
門の前には、監視カメラと、一人の若い組員が立っていた。サイズの合っていないダボついたジャージを着て、手には木刀を持っている。拳銃すら持てないほど、組は困窮しているのか。
「あ、あんた誰だ! ここは立ち入り禁止だぞ!」
泥だらけの私を見て、若衆が慌てて構える。
私は雨に濡れた髪をかき上げ、息を切らしながら言った。
「……開けて。父さんに、会わせて」
「はあ? 父さんって……」
若衆が懐中電灯で私の顔を照らす。その目が大きく見開かれた。
「ま、まさか……お嬢!? 紗矢お嬢ですか!?」
*
重い木の引き戸が開かれると、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。
古い畳と、線香と、染みついたタバコの匂い。
それは、東京の清潔なオフィスには決して存在しない、土着の生活の匂いだった。
「お嬢が帰ってきたぞ! タオルだ、誰かタオルを持ってこい!」
若衆の声が廊下に響き渡る。
奥の部屋から、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
現れたのは、数人の男たちだった。かつては数十人いた組員も、今はこれしか残っていないのか。皆、どこかやつれ、着ている服も質素だったが、その瞳だけは力強く輝いていた。
「紗矢お嬢……! ご無事で!」
「なんて恰好だ。東京で何があったんですか」
彼らは泥だらけの私を嫌がりもせず、むしろ宝物でも扱うように肩を支え、廊下へと招き入れてくれた。
その温かさに、張り詰めていた緊張の糸が切れ、涙が溢れそうになる。
私が「売国奴の娘」として世間から石を投げられている間も、彼らはここで、私を「家族」として待ち続けてくれていたのだ。
その時、廊下の奥から、一際大きな影が現れた。
身長一九〇センチ近い巨躯。鍛え上げられた筋肉が、薄手のシャツ越しにも分かる。
短く刈り込んだ黒髪に、切れ長の鋭い瞳。
鹿角(かづの)瑛司。
電話越しではなく、実物の彼を見るのは三年ぶりだった。
彼は私の姿――泥にまみれ、裸足で血を流し、震えている姿――を認めると、その端正な顔を苦痛に歪めた。
「……お嬢」
低く、地を這うような声。
彼は一足飛びに私との距離を詰めると、無言で自分の着ていた革ジャンを脱ぎ、私の肩にかけた。
残った体温と、微かなガンオイルの匂い。
「誰にやられました」
静かな問いかけだった。だが、その瞳の奥には、触れれば火傷しそうなほどの蒼い怒りの炎が渦巻いていた。
彼が拳を握りしめると、ミシッ、と骨が鳴る音が聞こえたような気がした。
「……瑛司。違うの、これは逃げるために……」
「俺がついていながら……すみません。こんな姿にさせてしまって」
瑛司は、私の濡れた足元に片膝をついた。
そして、傷だらけの私の足を見て、悔しそうに唇を噛み締める。
まるで、傷ついたのが自分自身であるかのように。
その過剰なまでの忠誠と、隠しきれない情愛に、胸が締め付けられる。
「騒がしいぞ。何事だ」
さらに奥の襖(ふすま)が開き、この家の主が現れた。
辰田剛(ごう)。
白髪交じりの髪をオールバックにし、和服を着流した姿。年齢を重ねて皺は増えたが、その眼光の鋭さは全盛期と変わらない。
地域の人々から「昇り龍のタツ」と呼ばれ、頼りにされてきた男。
「……親父」
私は瑛司の肩を借りて立ち上がり、父を見た。
父は、私の惨状を見ても動揺しなかった。ただ、深く、静かに私を見据えた。
その目が、「作家・辰田紗矢」ではなく、「娘・紗矢」を見ていることに気づき、私はたまらなくなって駆け寄った。
「父さん……っ!」
父の胸に飛び込む。
ゴツゴツとした大きな手が、私の背中を優しく叩いた。ポン、ポン、と。子供の頃、雷を怖がる私をあやしてくれた時と同じリズムで。
「よく帰ってきた。……怖かったろう」
その一言で、私は崩れ落ちた。
声を上げて泣いた。
内海さんが殺された恐怖。追われる絶望。社会から否定され続けた悔しさ。それらすべてが、父の腕の中で溶け出していく。
「馬鹿野郎が。辛かったらすぐに帰ってこいと言っただろうが」
父の声も少し震えていた。
しばらくして、私が泣き止むのを待ってから、父は私を居間へと通した。
瑛司が持ってきてくれた熱いお茶を一口啜ると、ようやく体の震えが止まった。
私は懐から、命がけで守り抜いたSDカードとファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。
「……父さん。これを見て」
父と瑛司の視線が、泥のついたファイルに注がれる。
「これは?」
「この土地で起きた震災の、本当の原因。……内海さんという研究員が命と引き換えに託してくれたデータよ」
私は、内海さんから聞いた話をすべて話した。
地下核実験。人工地震。失敗による大津波。そして、それを隠蔽するために口封じを行っている政府の実態。
話が進むにつれ、部屋の空気は重く、冷たく張り詰めていった。
父の表情から感情が消え、能面のような冷徹さが張り付く。それは、極道として修羅場を潜り抜けてきた男の顔だった。
「……政府が、やっただと」
父が低く唸る。
父の手元にあった湯飲みが、握力によってピキリと音を立ててヒビ割れた。
「俺たちのシマを……俺たちが守ってきたこの日昇の土地を、国が実験台にして壊したってのか。あの津波で死んだ婆さんも、漁師の源さんも、みんな、国のモルモットにされて殺されたってのか!」
ドンッ!
父の拳がテーブルを叩き割らんばかりに振り下ろされた。
若衆たちがビクリと肩を震わせる。
だが、その怒りは正当なものだった。
誰よりもこの土地を愛し、除染作業で汗を流し、故郷の再生を信じてきた父だからこそ、その裏切りは許しがたいものだったのだ。
「……親父」
今まで沈黙を守っていた瑛司が、静かに口を開いた。
「家の周りに、不審な車両が増えています。おそらく、お嬢を追ってきた連中です」
「囲まれたか」
「はい。数は不明ですが、プロです。今のうちの戦力では……」
瑛司は悔しそうに言葉を濁した。
今の辰田組には、チャカ(拳銃)の一丁すらないのかもしれない。あるのは錆びついたドスと、気合いだけ。
対する相手は、最新装備で武装した国家権力だ。
私は唇を噛んだ。
私がここへ逃げ込んだせいで、組のみんなを巻き込んでしまった。
「私が出るわ。私が囮になって……」
「座れ」
立ち上がろうとした私を、父の一喝が制した。
父は懐から煙草を取り出し、火をつけた。紫煙を深く吐き出し、ゆっくりと私と瑛司を見渡す。
その瞳には、すでに迷いはなかった。
「紗矢。お前はもう、ただの作家じゃねえ。この国最大の生証人だ」
「でも……!」
「俺はな、今までお天道様に背を向けて生きてきたヤクザモンだ。だがな、仁義だけは通してきたつもりだ。……国が仁義を欠いて、罪のねえ民衆を虐殺したってなら、黙って見てるわけにはいかねえ」
父は立ち上がり、背中の着物を脱ぎ捨てた。
露わになった背中には、鮮やかな「昇り龍」の刺青が彫り込まれていた。
老いてなお衰えぬ筋肉の背中で、龍が怒りの形相で天を睨んでいる。
「瑛司。蔵を開けろ」
「蔵、ですか? あそこにはガラクタしか……」
「いいから開けろ。……あそこには、先代から受け継いだ『とっておき』がある。今こそ使い時だ」
父はニヤリと不敵に笑った。それは、死地に向かう男の、凄絶な笑みだった。
「辰田組はこれより、国を相手に喧嘩を売る。……紗矢、お前も腹を括れ。ここから先は、インクじゃなくて血が流れる道だ」
外から、軍靴の足音が近づいてくるのが聞こえた。
雨音に混じって、セーフティを外す金属音が響く。
私の、そして私たちの「革命」の夜明けは、もう目の前まで迫っていた。
(第4話 完)
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