第2話:売国奴の娘
季節は、あの紅蓮の夜から遡ること半年ほど前。
晩秋の冷たい雨が、東京のアスファルトを濡らしていた。
千代田区の一等地にある近代的なオフィスビル。その最上階に、『純文振興社』の本社はある。
社名だけを見れば、純文学という斜陽産業を支える志ある出版社のように思えるだろう。だが、その内装は文学の香りとは程遠い。磨き上げられた大理石の床、無機質なガラスのパーテーション、そして壁に掲げられた巨大な日の丸。
そこは、言葉の聖域ではなく、権力の出先機関だった。
「――それで? また、こんなものを書いてきたのかね」
社長室の重厚な革張りのソファに深く腰掛けた男、神谷(かみや)岳(がく)は、私の原稿を汚いものでも摘むかのように指先で持ち上げた。
銀縁眼鏡の奥にある瞳は、爬虫類のように冷たく、感情の色がない。
「貧困にあえぐ地方都市の若者たちの群像劇……。ふん、相変わらずだね、辰田くん。君の書く物語は、どうしてこうも薄暗くて、じめじめしているんだ」
「……それは、今の日本にある現実だからです」
私、辰田紗矢は、膝の上で握りしめた拳に力を込めながら答えた。
「美しいものだけが文学ではありません。社会の澱(おり)のような場所にこそ、掬(すく)い上げるべき言葉があるはずです」
「澱、か」
神谷は鼻で笑うと、バサリと原稿をテーブルに放り投げた。数枚の紙が床に滑り落ちるが、彼は拾おうともしない。
「君は勘違いをしている。我々が出版社として求めているのは、国民に『希望』と『誇り』を与える物語だ。日本がいかに素晴らしい国であるか、政府がいかに賢明な舵取りをしているか。それを格調高い文体で讃えることこそが、今の純文学に求められる役割なんだよ」
それは文学ではない。ただのプロパガンダだ。
喉元まで出かかった言葉を、私は必死で飲み込んだ。
ここで彼に食って掛かっても、私の作家生命が断たれるだけだ。私はまだ、ペンを折るわけにはいかない。
「それにね、辰田くん」
神谷は立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてきた。高価なオーデコロンの香りが鼻をつく。
「君のその『辰田』という名前。これがまた、商売の邪魔なんだよ。父親は日昇(にっしょう)県のヤクザ、おまけに元極左過激派の闘士ときた。……『売国奴の娘』が書いた小説なんて、誰がありがたがって読むんだ?」
心臓を氷の針で刺されたような痛みが走る。
売国奴の娘。
幼い頃から、呪いのように私に付きまとってきた言葉。
「……父は、もう過激派ではありません。今はただの……」
「ただのヤクザ、だろう? 大して変わらんよ。反社会的勢力の娘を、温情でデビューさせてやった恩を忘れないことだ」
神谷は窓の外、雨に煙る皇居の森を見下ろしながら、興味を失ったように手を振った。
「小説の仕事は当分ない。代わりに、週刊誌『真相』の編集部に行きなさい。そこで社会勉強でもしてくるといい。世の中の『澱』とやらが、実際にどれほど醜いものか、よく分かるだろうから」
*
会社を出ると、雨足はさらに強くなっていた。
傘を叩く雨音が、私の憂鬱な心拍数と重なる。
地下鉄の駅に向かう道すがら、私はスマホを取り出し、SNSの検索窓に自分の名前を打ち込んだ。
自傷行為に近いと分かっていても、見ずにはいられなかった。
『辰田紗矢の新作、また政権批判かよ。いい加減にしろ』
『親がテロリストだからな。DNAレベルで日本が嫌いなんだろ』
『ヤクザの資金源になるからコイツの本は買うな』
『日本から出て行け』
画面を埋め尽くす罵詈雑言。
そのほとんどは、私の小説など一行も読んでいない人々の言葉だ。彼らは「辰田」という記号に石を投げているだけ。
分かっている。分かっているのに、言葉の礫(つぶて)は確実に私の心を削り取っていく。
(私は、ただ……)
ただ、いい小説が書きたかっただけなのに。
生まれた家や、親の過去に関係なく、私という個人を見てほしかった。
そのために必死で勉強して、言葉を磨いて、新人賞を獲った。ペン一本で、この理不尽なレッテルを覆せると信じていた。
けれど現実は、神谷の言う通りだった。
私はどこまで行っても、「売国奴の娘」でしかないのか。
ふと、指が通話アプリの履歴をなぞっていた。
『親父』という二文字。
私は駅の入り口で足を止め、迷った末に発信ボタンを押した。
数回の呼び出し音の後、しゃがれた、けれど温かい声が耳元に響いた。
『おう、紗矢か。どうした、こんな時間に』
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになった。
日昇(にっしょう)県の方言訛り。潮風と煙草の匂いがしてきそうな、無骨な父の声。
「……ううん、なんでもないの。ただ、声が聞きたくて」
『なんだ、東京でなんか嫌なことでもあったか? またあの社長に意地悪されたか』
「ふふ、お父さんにはお見通しだね」
辰田剛(ごう)。
日昇県の沿岸部をシマに持つ「辰田組」の組長。
背中に昇り龍の刺青を背負い、かつては「昇り龍のタツ」として近隣のヤクザから恐れられた男。
だが、私にとっては、不器用で優しい、たった一人の父親だ。
『気にすんな。東京の奴らは、地面に足がついてねえから頭でっかちなことばかり言いやがる。紗矢、お前はお前の書きたいもんを書けばいい。俺はいつでもお前の最初で最強のファンだかんな』
父の言葉には、不思議な力があった。
かつて極左として国と戦い、挫折し、ヤクザとして生き直した男の、地層のような重みのある言葉。
「……ありがとう。そっちはどう? みんな元気?」
『ああ、元気だけが取り柄だ。……と言いてえところだがな』
父の声のトーンが、わずかに沈んだ。
『除染作業員の派遣も、だいぶ減っちまった。国はもう、この辺りを見捨てるつもりらしい。補償も打ち切りだとよ。若い衆もまた一人、田舎に帰ったわ』
日昇県沿岸部。
数年前の大震災と、それに伴う原発事故で、壊滅的な被害を受けた場所。
父の組は、被災した住民たちを守るために奔走していたが、長引く避難生活と経済の疲弊は、確実に組の体力を奪っていた。
『まあ、俺と瑛司(えいじ)がいる限り、この組は潰させねえよ。今は瑛司が鹿(シカ)の肉を捌(さば)いて鍋にしてるとこだ。あいつ、鹿肉の処理だけは妙に上手くてな』
鹿角(かづの)瑛司。
父の右腕であり、組の若頭。そして、私の幼馴染。
無口で強面だが、私が帰省するといつも恥ずかしそうに目を逸らす、不器用な男。
『おい瑛司、紗矢から電話だぞ。代わるか?』
『えっ、いや、俺は……手が脂だらけなんで、いいっす! お嬢に……いや、紗矢さんによろしく言っといてください!』
電話の向こうで、慌てふためく瑛司の声が聞こえた。思わずクスリと笑みがこぼれる。
その何気ない日常の会話が、冷え切った私の心に灯(あかり)をともしてくれた。
「お父さん。私ね、今度『真相』っていう週刊誌の仕事をやることになったの」
『週刊誌? あの、スキャンダルとか載せてるやつか?』
「うん。最初は嫌だったけど……でも、やってみようと思う。小説だけじゃ届かない場所に、ペンを届かせるために」
神谷への反骨心だけではない。
父たちが守ろうとしている故郷が、なぜ国から見捨てられようとしているのか。
その「真相」に近づくための武器が、そこにあるような気がしたのだ。
『そうか。お前が決めたなら、それが正解だ。……無理はすんなよ。何かあったら、すぐに帰ってこい。ここはいつだって、お前の家なんだからな』
「うん。ありがとう、お父さん」
通話を終えると、雨音は相変わらず激しかったが、その冷たさはもう気にならなかった。
私はスマホをコートのポケットにしまい、顔を上げた。
私は書く。
綺麗なだけの嘘ではなく、血と泥にまみれた真実を。
たとえそれが、この国にとって不都合なものであったとしても。
その時の私はまだ知らなかった。
その決意が、私を父や瑛司をも巻き込む、巨大な運命の渦へと導くことになることを。
そして、私が「売国奴の娘」などという生易しいものではなく、国家そのものを転覆させる「革命の旗手」となる未来を。
――運命の歯車が回りだすまで、あと数日。
私が最初の「禁断の果実」を手にする瞬間が、刻一刻と迫っていた。
(第2話 完)
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