「君の小説は国益に反する」と追放されたが、私の本業は極道の娘です。背中の刺青(観音様)が覚醒したので、言論弾圧する独裁政権を物理的に破壊することにしました

ハニーシロップ

第一章:帰郷と覚醒―BloodandInk―

第1話:プロローグ・紅蓮の東京

 東京が、燃えていた。

 かつて日本の首都として栄華を誇ったコンクリートのジャングルは、今や紅蓮の炎に包まれ、黒煙が星空を塗り潰している。

 アスファルトを砕くキャタピラの振動。

 耳をつんざく爆撃音。

 逃げ惑う人々の悲鳴と、それを容赦なく踏み潰す軍靴の響き。

 それは、地獄と呼ぶにはあまりに無機質で、現実と呼ぶにはあまりに絶望的な光景だった。


 永田町を中心とした一帯は、極右政権・錦川(にしきがわ)内閣が指揮する「国防軍」によって完全に封鎖されていた。

 交差点には深緑色の重戦車が鎮座し、長い砲身を威圧的に向けている。上空には攻撃ヘリのローター音が、不快な羽音のように鳴り響いていた。

 彼らの銃口が向いているのは、外国の侵略者ではない。

 この国の主権を取り戻そうと蜂起した、自国民たちだった。


「撃てッ! 撃ち続けろ! 奴らを皇居前広場に入れるな!」


 指揮官の怒号が飛ぶ。

 一斉に火を噴く重機関銃。曳光弾が赤いラインを描いて闇を切り裂く。

 その暴力の雨の先にいたのは、武装した市民でもなければ、戦車部隊でもない。


 ――ただ一頭の、「鹿」だった。


 いや、それを鹿という言葉で形容していいものか。

 体高は五メートルを超え、その巨体は大型トラックすらも凌駕する。

 筋肉が隆起した四肢は鋼(はがね)のように強靭で、天を突くように伸びた巨大な角は、まるで神話の時代から抜け出してきたかのような荘厳さを湛えていた。

 全身から立ち上るのは、青白く輝く燐光(りんこう)。

 それは生物としての獣の枠を超えた、現人神(あらひとがみ)の如き威容。


『ブルォォォォォォッ!!』


 巨鹿が咆哮する。

 それは猛獣の唸り声ではなく、大気を震わせる金管楽器のような、高く、鋭く、美しい響きだった。

 鹿角(かづの)瑛司(えいじ)。

 かつてヤクザの若頭と呼ばれた男が、背中の「雄鹿」の刺青の力によって獣神化(じゅうしんか)した姿である。


 迫りくる機関銃の弾丸を、瑛司は巨体に見合わぬ俊敏さで回避した。

 アスファルトを蹴り、ビルの壁面を三角跳びの要領で駆け上がる。

 重力を無視したかのような立体機動。

 戦車の主砲が遅れて火を噴くが、その砲弾が着弾したときには、すでに瑛司の姿はそこにはない。


「速い……ッ! 化け物か!」

「対空射撃用意! 上だ、奴は上から来るぞ!」


 兵士たちの叫び声には、明らかな恐怖が滲んでいた。

 彼らは知らないのだ。

 その巨大な鹿の背に、もう一人、さらに恐ろしい存在が乗っていることを。


 ビルの屋上から屋上へと跳躍する巨鹿。

 その背中の上で、強烈な風圧に晒されながらも、微動だにせず手綱を握る女性がいた。


 辰田(たつた)紗矢(さや)。

 夜風に乱れる黒髪は濡れた烏の羽のように艶やかで、切れ長の瞳は戦場の炎を映して静かに燃えている。

 彼女が纏(まと)っているのは、鮮やかな緋色の着物だった。

 ただし、その着こなしは尋常ではない。

 動きを阻害しないよう、長い袖は襷(たすき)で縛り上げられ、裾は太腿まで大胆に捲り上げられている。

 そして何より目を引くのは、帯から上がはだけられ、白磁のような背中が完全に夜気に晒されていることだった。


 本来であれば、女性が戦場で肌を晒すなど狂気の沙汰である。

 だが、彼女にはそうせざるを得ない理由があった。

 彼女の滑らかな背中一面に彫り込まれた、精緻な刺青。

 慈悲深い表情を浮かべた「救世観音(ぐぜかんのん)」の像。

 その刺青が今、瑛司の闘気に呼応するように黄金色の光を放ち、脈動しているからだ。

 衣類で覆ってしまえば、力の放射が阻害される。さりとて、さらしを巻けば絵柄が隠れてしまう。

 だから紗矢は、胸元を特殊な粘着質のインナー――いわゆるヌーブラのような形状をした防護布――のみで覆い、背中という「砲門」を全開にしていた。

 その姿は、扇情的というよりも、むしろ宗教的な神々しさを感じさせる。


「瑛司。左翼、三時の方向。戦車大隊が布陣しているわ」


 轟音の渦巻く戦場にあって、紗矢の声は不思議なほど鮮明に、鹿の姿をした瑛司の意識に届いた。

 人間としての理性を失いかけた獣の精神を、彼女の凛としたアルトの声だけが繋ぎ止めている。

 瑛司は短く鳴いて応えると、空中で身を捻り、急降下を開始した。


 眼下には、交差点を埋め尽くす十数両の戦車。

 砲塔がこちらを向き、死の号令を待っている。


 紗矢は、鹿の背中に膝立ちになり、左手に握った弓を構えた。

 それは儀礼用の和弓だ。矢筒はない。物理的な矢など、彼女には必要なかった。

 彼女が弦(つる)を引き絞ると、背中の救世観音がカッと目映い光を放つ。

 その光が右手に集束し、一本の「光の矢」を形成していく。


(……皮肉なものね)


 弦を引き絞る極限の緊張感の中で、紗矢はふと、場違いなほど冷静に思考を巡らせた。

 かつて、私の指はそのすべてを、万年筆を握るために使っていた。

 重さ三十グラムにも満たない、黒と金の装飾が施されたモンブランの万年筆。

 それが私の武器だった。

 言葉を紡ぎ、物語を編み、誰かの心を救うことが、作家である私の使命だと信じていた。


 けれど、世界は言葉だけでは変わらなかった。

 美しい文章も、高潔な理想も、圧倒的な暴力と権力の前では、あまりに無力なインクの染みに過ぎなかった。

 私の書いた小説は「国益を損なう」と焚書され、私は「売国奴」の娘として社会的に抹殺された。

 ペンは剣よりも強し、なんて言葉は、剣を持った人間が許してくれた時にだけ成立する戯言だ。


 だから私は、ペンを捨てた。

 代わりに、この弓を手に取った。

 インクの代わりに、父が遺してくれたこの血と刺青を、武器に変えたのだ。


「――穿(うが)て」


 紗矢は短く紡ぐ。

 それは攻撃の合図であると同時に、彼女がこの理不尽な世界へ叩きつける、怒りの「一文」だった。


 弦が弾かれる。

 放たれた一本の光矢は、空中で百、千、万という無数の光の筋へと分裂した。

 それはあたかも、夜空から降り注ぐ流星群。

 あるいは、慈悲を知らぬ観音の涙。


 ヒュルルルルルルルル――ッ!!


 空気が裂ける音が重なり合い、戦車部隊の頭上へ殺到する。

 鋼鉄の装甲など、紙切れ同然だった。

 古代文明の理(ことわり)を秘めた光の矢は、物理法則を無視して戦車の装甲を貫通し、エンジンルームを、弾薬庫を、そして砲身を次々と破壊していく。


 ドォォォォォォォォンッ!


 連鎖的な誘爆。

 巨大な火球がいくつも膨れ上がり、夜の東京を昼間のように照らし出す。

 爆風の中を、瑛司が駆け抜ける。

 炎を纏った巨鹿と、その背で超然と弓を構える和装の美女。

 そのあまりに非現実的で、あまりに美しい光景に、生き残った兵士たちは銃を撃つことさえ忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 それは、戦争というよりも、神話の再現だった。


 紗矢は燃え上がる戦車群を見下ろしながら、小さく息を吐いた。

 背中の刺青が熱い。

 救世観音の加護があるとはいえ、力を使いすぎれば精神が摩耗する。

 けれど、まだ止まるわけにはいかない。

 この道の先、首相官邸の地下深くに、この国の悪夢の根源――錦川(にしきがわ)治城(はるき)がいる。


「行くわよ、瑛司」


 紗矢は愛おしむように、鹿の太い首筋に手を触れた。

 剛毛の下にある、温かい体温。

 かつて人間の姿をしていた彼が、不器用に、けれど真っ直ぐに向けてくれていた好意の温度。

 彼もまた、命を削ってこの姿になっている。

 私のために。私の描く「革命」のために。


『オォォン……』


 瑛司が優しく喉を鳴らす。

 その瞳は、獣のものでありながら、どこまでも透き通っていた。

 私たちが進む道は、修羅の道だ。

 多くの血が流れ、多くの命が失われるだろう。

 それでも。


(書き上げるのよ、紗矢。これが、私の最後の作品)


 紗矢は再び前を見据えた。

 紅蓮の炎に照らされた皇居の森の向こう側を。


 ――これは、私がペンを折り、国を射るまでの物語。

 純文学作家・辰田紗矢が、革命家・辰田紗矢へと生まれ変わるまでの、血とインクの記録(レコード)だ。


 物語は、数ヶ月前へと遡る。

 まだ私が、世界は言葉で変えられると信じていた、あの愚かで幸福な日々へ。


(第1話 完)

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