第4話 二人の三郎

わずかな時しか共に居なかったが、老僧は寂玄じゃくげんに全幅の信頼を置いていた。

彼は、満足げに遺言を残した。


「ハツを、頼む」


ハツ。


寂玄が浄播寺じょうばんじに来る一年ほど前から、寺女中としてこの寺で暮らす娘だ。

寄進に来てくれる村の男たちから聞く話では、子を産む前に流してしまい、離縁されてきたという。

彼らは、寂玄が欲しいと思う前にそのような情報を囁き、そして拝む。


嗚呼、子も産めず、嫁ぎ先も無い厄介者を、よくぞ引き取って下さった、と。


どうでも良い、と若い寂玄は心中で反論する。

彼女がどれだけ御仏みほとけに縋り、老住職を父のように労っていたか、傍で見ていればわかる。

朝晩の勤行ごんぎょうだけでなく、常の仕事の合間にも塔や本尊に手を合わせる。

その信心深さは、ただの奉公人の域を明らかに超えていた。

先代住職が「あれはもう、信女しんにょと言ってよい」と呟いていたのも頷ける。


子が産めないから何なのだと、若者らしい怒りすら覚える。

だが、働き手を産めない女が閉鎖的な村でいかなる「重荷」になるのか、わからない程幼くはなかった。


初夏が過ぎ、青葉が濃くなった頃。

粥が炊かれる台所に、寂玄は顔だけ見せる。

大判の手拭いで頭をすっぽり覆っている後ろ姿は、いつものように忙しなく動いている。


「ハツさん、朝から暑いですね」


そう話しかける寂玄を振り返るハツの肩は、程よく力が抜けている。

手拭いから覗く眼差しが、かつてに比べ幾ばくか柔らかくなっていた。

ハツは、控えめに頷いた。


「本当に。三郎さぶろう汗疹あせもがひどくなってませんか?」


ああ、そういえば、と寂玄は調理場の壁を隔てた庭へと足を進めた。

既に起き、庭でとぶイナゴを追いかける四歳の幼子を見つける。


「三郎、身体を拭おう」

「おしょーさま、おはよーございます!」


高い子供の声に頬を綻ばせながら、寂玄は小さな頭を撫でた。


老住職の死後すぐに、村に流行病はやりやまいが横行した。

そのせいで一家が全滅して取り残された子供を、浄播寺の若住職は引き取った。


寂玄は、慣れた手つきで幼子の手を優しく引く。

高山の寺で小坊主の世話をしていた彼にとって、それは当然の振る舞いだった。

冷たい井戸水を引き上げ、布巾につける。

山からの湧き水は、手が痺れるほど冷たい。

手の温度や息で温めてから、幼児の脆い赤みのある肌に、そっと当てた。


「うふふ、くすぐったい…!」

「我慢だ、我慢」


逃げようとする小さな身体を抱き上げる。

首にかじりついてくる小さな腕に苦笑しながらも、首や背中の後ろを柔らかく拭いていく。

その度に、彼は胸の中の空洞が淡く満たされていく心地がした。

得度とくどする前、寂玄自身の名もまた「三郎」だった。

まるで息子を慈しむ父のように、彼は幼子の細腕に袖を通してあげる。


「これで良し。さあ、ハツさんの手伝いに行こう」

「はーい!」


炊事場の戸口から、粥の優しい香りと共に、漬物をトントンと切る音が漏れてくる。

浄播寺の、いつもの朝が始まった。

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寂静掌話 のそり @nosori

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