第3話 山桜と回向


梅は散り、山桜が若葉の中に光る。

黎明れいめいの小寺に、朝の鐘が響く。

浄播寺じょうばんじの一日が、静かに始まった。


少しして、本堂に入った寂玄じゃくげんが、本尊の前に進み出た。

ハツはやや後方に控え、目を伏せる。


寂玄は合掌一礼し、香を焚く。

数珠を擦る音が、微かに響いた。

寂玄は数珠を指で撫で、一旦心を落ち着かせる。

鈴の澄んだ音が細く響いた。


願我身浄如香炉がんがしんじょうにょこうろ……」


堂に入った声音が響く。

本堂に響く香偈こうげの声音は、青葉のように清々しく伸びやかだ。


背後のハツも、慣れたように続く。

冬が始まるまでは、老齢の住職がハツの介添でこなしていた勤めだ。

ハツはただ、庫裡くりで床に伏せる住職が、せめて今日も窓から山桜を見ることができるよう祈った。


控えめながらも呼吸の合ったハツの声は、高く澄んでいる。

青年僧侶はその清らかさに、かつて見た白梅を思い出した。


庫裡の慧光えこうの寝所にも、寂玄の伸びやかな読経は聞こえてくる。

老僧は上体を起こして静かに合掌しながら、囁くような声で読経する。

春雪を照らす陽の光が、皺の刻まれた頬をほのかに撫でる。

読経を終えた彼は、満足げな笑みを浮かべながら念仏を唱えた。


南無阿弥陀仏なァむあーみだーぶ 南無阿弥陀仏なァむあーみだーぶ…」


僧侶も、山伏も、次々と去っていったこの寺で、孤独に仏法の灯明とうみょうを照らし続けた慧光。

今、皺が深く刻まれた彼の頬は、安らかに緩んでいる。


南無阿弥陀仏なァむあーみだーぶつー……


老僧の脳裏に、小さな寺女中の姿が浮かぶ。

最初寂玄の前で全身を強張らせていたハツは今、控えめながらも寂玄の回向えこうに合わせ、確かに澄んだ声で祈っている。

慧光は深い安寧の中、ホッと息をついた。


浄播寺の老住職は、山桜に見守られながら、浄土へと渡った。

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