救い
午後の明るい日差しは、雨のせいで届かない。それでも、この部屋はとても優しい明るさだ。観葉植物もたくさん置かれ、木々たちの安らかな呼吸が聞こえてきそうだった。
目の前の花村先生は、この部屋のように優しそうな人だった。いや、この部屋がこんなふうに感じるのは、この先生がいるからかもしれない。
「ジュースはないんですけど、コーヒーやお茶類はたくさんあります。ハーブティーもありますよ。何か飲めそうなものはありますか?」と、そう聞いてくれている。
「よくわからないので、お任せでお願いできますか?」
「もちろんです。温かいものでもいいですか? あと、甘いほうがいいかな?」
なんだか嬉しそうに話しかけてくれる。
「温かくて甘いものでお願いします。」
そう伝えると、花村先生の顔に笑顔の花が咲いた。
しばらくすると部屋中に桃の香りが充満してきた。
「いい匂い」と、思わず口に出してしまう。
「ふふふっ、良かった」と花村先生がカップを手にやってきた。
「ピーチティーです。少しだけローズヒップも混ぜてあるので、酸味と甘みがあります。お口に合うといいんですけど…」
そう言ってテーブルの上に置いてくれた。
(本当にいい香り)
この匂いだけで心が癒される感じがした。飲んでみると、
「美味しい」
桃の味が酸っぱめで、とても飲みやすかった。
「良かった」と花村先生の優しいトーンが、紅茶と一緒に胃に届いてきた。
花村先生は、私の少し斜め前に座った。紅茶を飲んでいる私を、嬉しそうに見ている。
「にこちゃんって名前は、漢字がありますか?」と聞いてきた。
「笑うという漢字に心で『笑心』です。初対面の人には、なかなか読んでもらえません」
そう言うと、
「笑顔の心なんて素敵ですね」と言ってくれた。
(『笑う心』じゃなくて、『笑顔の心』か…。)
次からは、自分の漢字を伝えるときはそう答えようと思った。
両手でマグカップを包む。クーラーで冷えた指先に、温かさがじんわり伝わってくる。その温もりを感じている間も、花村先生は笑顔で待ってくれていた。
無意識のうちに、口が勝手に動く。
「先生はいいですね。こんなに綺麗な病院で、いい匂いに包まれながら仕事ができて…。ちゃんと学校とかにも行けていたんでしょうね。」
ふと先生の顔が驚いているのに気づき、今自分が何を話したのか考えた。
「っ! あれ? 私、今なんて?」
(なんだか、すごく嫌味なことを言ってしまった気がした。)
「ふふっ、そうですね。私も実は驚いているんですよ。こうしてカウンセラーとして働いている自分に。やっぱり、素敵な病院ですよね?」
失礼なことを言ってしまったのに、花村先生は嬉しそうに微笑んでいる。
「…はい」
すごく自分が恥ずかしい人間だと思い、顔を上げられない。
「あの、すみません…。私、今とても失礼なことを言ってしまって…」
「そう? 笑心ちゃんは、ここが素敵な病院だと言ってくれたのかと思ったけど? 違ったかな?」
「いえ、素敵な病院だと思います。なんというか、先生が羨ましいなと思った…のかな…」
頭を通さずに出てしまったような言葉で、なぜそう言ったのか自分でもよくわからなかった。
「もしかして、無意識に言葉に出てしまった感じかな?」
(! 気づいてもらえた?)
「はい、口が勝手に動いたような気がします。」
「そうなんだね。もしかして、学校でもそういうことがあった?」
先生は、私がずっと気にしていることを的確に突いてきた。
「はい…。たぶん…。それまで楽しく友達と話していたのに、気づいたら皆んな、え?って顔をしている気がして…。それからは、少しずつ距離が離れてしまったような、遠くから見られているような感じになって…。皆んなの口が気になって…。私の悪口を言っているんじゃないかって…」
「それで、学校に行けなくなってしまったんですね。」
そうやって花村先生が、私の言葉を代弁した。
腿の上のスカートを、両手でぎゅっと握った。
「笑心ちゃんは、学校が好きだったのね。それなのに、行けなくなってしまって……辛かったですね。」
先生の声が、胸の奥まで届く。
「また、行けるようになりたいね。」
涙が溢れ出す。声に出せず、ただ頷くことしかできなかった。私は、またあの日常に帰りたい。それなのに……。
「帰りたいんです。とても……。あの場所に……」
音にならないくらいの小さな声を、絞り出した。
「笑心ちゃん、帰れますよ。あなたがそう望むのなら。」
「でも……」
花村先生は、椅子を少しこちらに寄せ、目を覗き込むように身をかがめた。
「笑心ちゃんはさっき、私がちゃんと学校に通えてたって言ってたでしょう? 覚えてる?」
私は小さく頷く。
「正解。私はね、何も考えずに毎日学校に通ってた。会社に入って、仕事もしててね……。毎日とても楽しかったの。彼氏もいたし。」
ふふふ、と先生は照れたように、はにかんでみせた。
「それなのに、だんだん楽しくなくなっちゃってね。会社に行くことも、辛くなってきてしまったの。」
予想していなかった話に、思わず顔をあげた。そこには、少し寂しそうな先生の顔があった。
「それで病院にかかったら、鬱だって言われた。」
「……えっ?」
「ほんと、びっくりよね。でも当時は、驚くこともできなかった。感情がね、何もなくなってしまっていたの。」
花村先生にも、そんなことがあったなんて。今の先生だけを見ていたら、想像もつかない。
「そこで出会ったのが、御門先生なの。最初は、このクリニックの患者だったのよ。」
先生の顔に、また優しい笑みが戻る。
「だからね、笑心ちゃんも、前のような生活を取り戻せる。そう断言する私のこと……信じられる?」
しばらく花村先生の目を見つめていた。
(信じたい……いや、信じられる。きっと、もう信じてる)
うん、と大きく頷いた。
「それでは一つ、これだけは覚えておいてほしいことがあります。」
そう言って先生は人差し指を立て、1を示した。
「今、笑心ちゃんは私に失礼なことを言ってしまったと言っていたよね。それに、友達にも。でも、それはね、笑心ちゃんのせいではない。
今、たくさんお話ししていて思ったのは、笑心ちゃんが、思わず口にしてしまったことを後悔しているように見えたということ。本当はそんなことを言いたかったわけじゃないって。だから、笑心ちゃんのせいじゃない。
これだけは、覚えておいてね。」
ニッコリと、先生は微笑んだ。
(? 私のせいではない……)
そう言ってもらえて、救われた気がした。なぜ私のせいではないのか、よくわからない。でも、『私のせいではない』――その言葉が、自分が一番欲しかったものだったようだ。
「私のせいではない……」
もう一度、そっと呟いた。
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