45歳、もう一度だけーー言葉にできなかった男が、もう一度、誰かを好きになる。

マスターボヌール

第1話「再会」


土曜の朝、佐伯直は一人でゴミ出しをしていた。


45歳。バツイチ。一人暮らし。


仕事は地方の印刷会社の営業。20年以上同じ会社にいる。出世はしてない。でもクビにもならない。そういうポジションだ。


休日は特にやることもない。スーパー銭湯に行って、惣菜を買って帰って、テレビを見て、寝る。


それが、直の「普通」だった。


ゴミ袋をステーションに置いて振り返ると、隣のアパートに軽トラックが停まっていた。


引っ越しか。


また誰か入るのか。隣の角部屋は2ヶ月ほど空いていた。前の住人は若い男で、夜中にギターを弾くやつだった。管理会社に苦情が入って出ていったと聞いた。


直には関係ない話だ。


そう思って自分のアパートに戻ろうとしたとき、視界の端で人が動いた。


段ボールを抱えた女性が、外階段を上っている。


重そうだな、と思った瞬間、その女性がよろけた。


「危ない」


声が出ていた。


反射的に駆け寄って、女性の背中に手を添える。段ボールが落ちるのを防いだ。


「あ、ありがとうございます……」


女性が振り向く。


見覚えのある顔だった。


丸い目。少しだけ垂れた眉。困ったように笑う口元。


20年以上前の記憶が、一気に蘇る。


「……あれ、もしかして、高村くん?」


その声で、確信した。


「……藤川?」


藤川咲。


高校の同級生だった。


---


「いやー、びっくりした。まさか隣に住んでるなんて」


咲は段ボールを玄関に置きながら、笑った。


直は咲の部屋の前に立っている。勝手に上がるわけにもいかず、かといって帰るタイミングも掴めず、中途半端な位置にいた。


「藤川……いや、今は何て呼べばいいんだ?」


「咲でいいよ。旧姓に戻したから、藤川で合ってるし」


旧姓に戻した。


それが何を意味するか、直にはすぐに分かった。


「そうか」


「うん、バツイチ。シングルマザー。重いでしょ」


咲は軽い口調で言った。その軽さが、逆に重く感じた。


「……俺もバツイチだ」


「え、そうなの?」


咲が目を丸くする。


「5年前に離婚した」


「そっか……」


咲が少し黙ってから、笑った。


「じゃあ、お互い傷物同士だね」


傷物。


その言葉が、胸に刺さった。


元妻の最後の言葉が、頭の中で再生される。


『もう疲れた。あなたと話すの、疲れるの』


直は何も言えず、ただ曖昧に笑った。


「ねえ、高村くん。時間あったら、引っ越し手伝ってくれない? 業者には大物だけ頼んだんだけど、細かい荷物がまだ車に残ってて」


「……ああ、いいよ」


断る理由がなかった。


土曜の予定は、スーパー銭湯だけだ。


---


軽トラックと部屋を何往復かした。


咲は相変わらずよく喋った。


高校時代もそうだった。直が黙っていても、美咲が勝手に喋って、勝手に笑って、勝手に会話を成立させていた。


「高村くん、相変わらず無口だね」


「……そうか?」


「そうだよ。高校のときも、私ばっかり喋ってたじゃん」


「そうだったかな」


「覚えてないの? 文化祭の準備のとき、2人で買い出し行ったじゃん。私がずーっと喋ってて、高村くんは『ああ』とか『うん』しか言わなくて」


覚えていた。


文化祭の準備。11月の寒い日。商店街を歩いて、模造紙とガムテープを買った。咲が寒い寒いと言いながら、両手をこすっていた。


「……覚えてる」


「え、覚えてるの?」


「模造紙を買いに行った。お前が寒いって言ってた」


「すごい、覚えてるんだ」


咲が嬉しそうに笑った。


「高村くん、昔から優しかったよね」


「……そうか?」


「そうだよ。口数少ないけど、ちゃんと見ててくれる感じ。安心するんだよね」


直は何も言えなかった。


安心する。


そんなふうに言われたのは、いつぶりだろう。


---


荷物を全部運び終わる頃には、昼を過ぎていた。


「ありがとう、助かった。お礼にお昼おごるよ」


「いや、いいさ」


「遠慮しないでよ。近所にカフェあるんでしょ? さっき看板見えた」


結局、断りきれなかった。


駅前の小さなカフェに入る。土曜の昼で少し混んでいたが、窓際の席が空いていた。


咲はカフェラテを頼み、直はブレンドコーヒーを頼んだ。


「高村くん、今何の仕事してるの?」


「印刷会社の営業」


「へえ、印刷って今大変じゃない?」


「まあ、そうだな。紙の需要は減ってる。でも、すぐには潰れないと思う」


「そっか。高村くんらしいね」


「……何が?」


「なんていうか、堅実っていうか。地に足ついてる感じ」


直には分からなかった。


堅実なのではなく、ただ何も変えられなかっただけだ。20年以上同じ会社にいるのは、転職する勇気がなかったからだ。


「咲は何の仕事を?」


「私? 介護。ヘルパーの資格取って、訪問介護やってる」


「そうか」


「離婚してからね。子供もいるし、手に職つけなきゃって思って」


子供。


そうだ。シングルマザーと言っていた。


「子供、何歳だ?」


「中2。男の子。名前は陽」


「中2か」


「そう。反抗期まっさかり。もう毎日大変」


咲は笑ったが、その目には少し疲れが見えた。


手元のカフェラテをじっと見つめて、少し黙る。


そして、ふっと息を吐いた。


「でも、まあ、なんとかなるしかならんよね」


そう言って、また笑った。


直は何も言えなかった。


その笑顔が、少しだけ無理をしているように見えた。


---


カフェを出ると、時刻は午後2時を過ぎていた。


アパートに戻る道すがら、咲が言った。


「ねえ、高村くん。今日ほんとにありがとう」


「いや、大したことしてない」


「大したことしたよ。1人で全部やるつもりだったから。助かった」


咲がまっすぐに直を見た。


「今度何かあったら、声かけてね。私も何か困ったことあったら頼るから」


「……ああ」


隣同士。


これから顔を合わせる機会は増えるだろう。


そう思ったとき、咲の部屋から人が出てきた。


中学生くらいの男子だ。背は直の肩くらいまである。髪は少し長めで、目つきが鋭い。


「あ、陽。帰ってきてたの」


「……で、このおっさん誰? ママの知り合い?」


陽が直を見て言った。警戒心が剥き出しだった。


「うん、高校の同級生。高村くん。引っ越しを手伝ってくれたの」


陽が直をじっと見る。


「……彼氏とかじゃないよね。まじそういうの簡便してくれよ」


「ち、違うよ!」


咲が慌てる。


「いや、違う」


直も言った。


陽は「ふーん」とだけ言って、部屋に戻っていった。


「ごめんね、愛想なくて。人見知りなの」


「……いや、いい」


直は自分の部屋に戻ろうとした。


「じゃあ、また」


「うん、また」


咲が手を振った。


直は軽く頭を下げて、自分の部屋に入った。


---


ドアを閉めて、靴を脱ぐ。


いつもと同じ部屋。いつもと同じ匂い。いつもと同じ静けさ。


でも、何かが違った。


ソファに座って、天井を見る。


今日の出来事が、頭の中を巡る。


咲の笑顔。


20年ぶりの再会。


『お互い傷物同士だね』


『高村くん、昔から優しかったよね』


そして、陽の言葉。


『彼氏とかじゃないよね』


直は「違う」と言った。


咲も「違う」と言った。


違う。


当然だ。再会したばかりだ。それに、咲には子供がいる。中学生の息子がいる。


直にそんな資格はない。


そのはずだった。


でも。


直は自分の胸に手を当てた。


さっき、「違う」と言った瞬間、胸の奥で何かが動いた。


小さな、違和感。


いや、違う。


違和感じゃない。


——否定したくなかった。


直は自分の感情に気づいてしまった。


「違う」と言いたくなかった。


そう思っている自分がいた。


馬鹿な話だ。


45歳のバツイチが、再会したばかりの同級生に何を期待している。


しかも相手はシングルマザーだ。中学生の息子がいる。背負っているものが違う。


直が入り込む余地なんてない。


そう思った。


そう思おうとした。


でも、窓の外を見ると、隣のアパートの角部屋に灯りが見えた。


咲の部屋だ。


黄色い、暖かい光。


あの部屋には、咲と陽がいる。


母親と息子が、夕飯を食べて、テレビを見て、笑っている。


そんな当たり前の光景が、あの灯りの向こうにある。


元妻とは、そういう「当たり前」を作れなかった。


いつも、直は部屋の隅にいた。


元妻の人生に、入れなかった。


でも、咲の言葉が頭の中に残っている。


『口数少ないけど、ちゃんと見ててくれる感じ。安心するんだよね』


——もし、もう1度。


もし、もう1度誰かの隣にいられるなら。


今度は、ちゃんと。


直はそう思った。


馬鹿な話だ。


45歳のバツイチが、何を夢見ている。


でも、その言葉を打ち消すことができなかった。


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