第五記録【親友の正論と、苦いイタリアン】



 オフィスの空気はまるで別物のように感じられた。

 いつもなら耳障りな黒電話のベルの音も、おじさんたちの咳払いも、まるでオーケストラのチューニングのように心地よく響いている。

 

 私のデスクから見える景色――灰色のパーティションと、書類の山、そして天井のシミさえも、なんだかキラキラと輝いて見えるのだから重症だ。


 原因は、たった一つの出来事。

 昨夜の、あの無言電話。

 そして今朝、給湯室で交わした高橋係長との短い会話。

 『嬉しかったです』という、あの言葉。


 私はワープロのキーボードを叩きながら、無意識に口角が緩んでしまうのを止められなかった。

 

 画面の文字を目で追っているようで、脳裏には彼のはにかんだ笑顔が焼き付いている。


 ふと、視線を感じて顔を上げる。

 

 斜め前の席にいる高橋係長と、バチリと目が合った。

 彼は受話器を耳に当てたまま、私にだけわかるように、小さく片目を閉じてみせた。


 ドキン、と心臓が跳ねる。

 それは私たちだけの合図。

 共犯者であることの確認。


 体温が一気に一度くらい上がった気がして、私は慌てて視線をキーボードに戻した。

 だめ。ニヤけちゃう。

 こんなところを誰かに見られたら、不審者扱いされてしまう。


『はいはい、ごちそうさま』


 呆れ果てた声が、頭上から降ってきた。

 明菜だ。

 彼女は私のワープロの上に腰掛け、私の顔を覗き込んでいる。


『洋子の今の脳内、すごいことになってるわよ。お花畑でスキップする少女漫画の主人公みたい。背景に薔薇の花が飛んでるのが見えるわ』


 ……別にいいじゃない。

 幸せな気分に浸ることくらい、許してよ。


『あのね洋子。医学的に忠告しておくけど、今のあんたは脳内麻薬中毒の状態よ』


 明菜はジュリ扇で私の額をペチリと叩く。


『ドーパミンとエンドルフィンが過剰分泌されて、前頭葉の理性が麻痺してるの。これを専門用語で「恋の酩酊状態」と呼ぶわ。痛みも恐怖も感じにくくなる代わりに、危機管理能力が著しく低下する。つまり、今のあんたは丸腰で戦場を歩いてるようなものよ』


 危機管理?

 そんな大げさな。

 私はただ、久しぶりのトキメキを楽しんでいるだけなのに。


『その「油断」が命取りになるって言ってるの。……ほら、今日は親友とのランチなんでしょ? 兜の緒を締めなさい』


 そうだった。

 私はハッとして時計を見た。


 11時55分。


 今日は高校時代からの親友、カオリとのランチの約束があるんだった。


 


 会社の昼休み。

 私はオフィス街にある、最近オープンしたばかりのイタリアンレストランに向かった。


 コンクリート打ちっぱなしの壁に、パステルカラーのネオンサイン。

 店内の至る所に観葉植物が飾られ、BGMにはお洒落なフュージョンジャズが流れている。

 いわゆるイタメシブームの走りだ。


 メニューにはティラミスやらボロネーゼやら、舌を噛みそうな名前が並んでいる。


「洋子! こっちこっち!」


 奥のテーブル席で、派手に手を振る女性がいた。

 カオリだ。


 鮮やかなロイヤルブルーのスーツ。

 肩にはしっかりとパッドが入っていて、シルエットが逆三角形を描いている。

 前髪を立ち上げたワンレンヘアに、太めの眉、そしてビビッドな赤のルージュ。


 大手広告代理店で働く彼女は、まさにこの時代のバリキャリを象徴するような女性だった。

 地味な事務服を着た私とは、まるで人種が違う。


「久しぶり、カオリ。元気そうね」

 

「元気だけが取り柄よ。もう毎日残業続きで肌荒れちゃってさ。見てよこれ」


 彼女はそう言いながらも、完璧なファンデーションで覆われた肌には自信が満ち溢れている。


 私たちは濃厚カルボナーラと食後のコーヒーを注文し、久しぶりの再会を喜び合った。


 話始めの話題は他愛のないことだった。

 高校時代の同級生の噂話や、健康のこと。


 けれど、カオリがバッグから一冊の週刊誌を取り出したことで、空気は一変した。


「ねえ見た? これ」


 彼女が広げたのは、今世間を騒がせている人気俳優とアイドルの不倫スクープ記事だった。

 白黒の写真には、うつむいてホテルから出てくる二人の姿が掲載されている。


「ああ……テレビでやってたね」

 

「ほんと信じられない。奥さん妊娠中なんでしょ? 最低じゃない?」


 カオリはフォークでパスタを巻き取りながら、吐き捨てるように言った。


「私さ、不倫する奴の神経だけは理解できないのよ。奥さん裏切って、世間欺いて、コソコソ隠れてやって……何が楽しいの? 脳みそ湧いてるとしか思えない」


 ドキリ、とした。

 カオリの言葉の鋭さが、私の胸の柔らかい部分を掠めたからだ。


「ま、まあ……好きになっちゃったら、しょうがない部分もあるんじゃない?」


 私は精一杯の愛想笑いで、お茶を濁そうとした。


 けれど、それがカオリの導火線に火をつけてしまったようだ。


「はあ? しょうがない?」


 カオリは目を吊り上げた。


「本能のままに生きたいなら、サルと一緒じゃん。人間には理性があるでしょ。結婚けいやくを守れないなら、最初からするなって話よ」


 彼女はワイングラス(中身は水だが)を揺らしながら、冷ややかに断言する。


「バレなきゃいいとか思ってるのが浅ましいのよ。自分の快楽のために他人を傷つけて平気な神経……人間として『欠陥品』ね」


 欠陥品。


 その言葉が、私の心臓に深く突き刺さった。


 口の中に入れたカルボナーラが、急に味を失った。

 濃厚なはずのクリームソースが、まるで砂のようにザラザラと喉に詰まる。


 私は、欠陥品なんだろうか。


 夫がいながら、他の男性にときめいて、夜中にこっそり電話をかけて。

 そんな私は、カオリから見れば、脳みその湧いたサル以下の存在なのだろうか。


 急速にしぼんでいく私の心とは裏腹に、明菜がテーブルの向こう側――カオリの隣にふわりと現れた。


『……ふーん。なるほどね』


 明菜は頬杖をつき、興味深そうにカオリを観察している。


『典型的な正論武装型ね。彼女、一見強そうに見えるけど、中身はスカスカよ』


 え?


『彼女がなぜこんなに怒るかわかる? 洋子』


 明菜はカオリの顔の周りを指でなぞる。


『これは心理学でいうシャーデンフロイデ(他人の不幸を喜ぶ心理)の裏返し、そして投影よ。彼女はね、自分の人生に満足していないの』


 満足してない?

 あんなに輝いてるのに?


『輝いて見えるのはメッキよ。仕事はできる、金もある。でも、心の底では愛されていない、選ばれていないという欠乏感に苛まれている。だからこそ、社会的な「正しさ」にしがみつくしかないの』


 明菜の講義は続く。


『「私はルールを守っている」「私は正しい」。そう自己暗示をかけないと、孤独に押しつぶされそうだからよ。そんな彼女にとって、ルールを破ってまで愛や快楽を得ようとする不倫は、許しがたい存在なの。だって、もしそれを認めてしまったら……』


 明菜は意地悪く笑った。


『真面目に我慢している自分が、馬鹿みたいじゃない?』


 ……


『だから彼女は攻撃するの。不倫する奴は欠陥品だと見下すことで、自分の「正しさ」と「価値」を守ろうとしている。哀れな防衛機制よね』


 明菜の解説は、確かに理路整然としていた。

 でも、今の私には、その理屈よりもカオリの「正論」の方が重かった。


 だって、不倫が悪いことなのは事実だもの。

 どれだけ心理学で説明されても、世間のルールはカオリの味方だ。


 


 ランチを終え、店を出る頃には、私の心は鉛のように重くなっていた。

 朝の浮かれた気分なんて、跡形もなく消え失せていた。


「じゃあね洋子。また近いうちにご飯行こう」


 別れ際、カオリが私の手をぎゅっと握った。

 その手は温かく、そして残酷だった。


「でも、洋子はいいね」


 カオリは屈託のない笑顔で言った。


「真面目な旦那さんで、浮気の心配なんてゼロでしょ? 毎日決まった時間に帰って、ご飯作って……正直、私には退屈すぎて無理だけど」


 彼女は悪気なく笑う。


「でも、そういう『地味』なのが、一番の幸せなんだよね。女としての旬が過ぎても、安心して生きていける場所があるんだもん。羨ましいわ」


 地味。

 安定。

 旬が過ぎた。


 その一つ一つの単語が、私に鎖を巻き付けていく。


「……そうね。私は、地味な主婦だから」


 私は乾いた声で答えた。


「それが、私の幸せなんだと思う」


 カオリは満足そうに頷き、ヒールの音を響かせて去っていった。

 その背中は、「正しさ」という鎧を着て、とても眩しく見えた。


 私は、あっち側の人間じゃない。

 私は、こっち側だ。


 地味で、退屈で、誰にも期待されず、ただ奥さんという役割だけをこなす。

 それが、佐々木洋子という人間に与えられた、唯一の「正解」なんだ。


 高橋係長なんて、夢を見ていたんだ。

 住む世界が違う。

 彼はこれからの人。私は、終わった人。


 関わっちゃいけない。

 汚しちゃいけない。


 私は拳を握りしめ、自分に言い聞かせた。


 


 午後。

 オフィスに戻った私は、心をお茶配りマシーンモードに切り替えていた。


 感情を殺し、表情を消す。

 それが一番、傷つかない方法だから。


 定時少し前。

 コピー機の近くで、高橋係長が話しかけてきた。


「あ、佐々木さん」


 彼の声は弾んでいた。

 周りに人がいないのを確認して、彼は一歩近づいてくる。


「あの……今週末なんですけど、もし時間があれば」


 デートの誘いだ。

 昨日の今日だもの。彼の中では、物語は進んでいる。


 朝の私なら、きっと飛び上がって喜んでいただろう。

 でも、今の私の耳には、カオリの「欠陥品」という言葉がこびりついている。


 私は立ち止まり、彼を見ずに書類に目を落としたまま言った。


「高橋係長」

「は、はい?」


 私の冷たい声色に、彼が戸惑う気配がした。


「業務に関係のない話は、控えていただけますか」

 

「え……」

 

「ここは会社です。私語は慎むべきだと思います」


 顔を上げる。

 私は、能面のような無表情を作って、彼の目を見た。


「それに、私は既婚者ですので。誤解を招くような行動は迷惑です」


 迷惑。

 あえて、一番ひどい言葉を選んだ。


 高橋係長の顔から、サーッと血の気が引いていくのがわかった。

 信じられないものを見るような目。

 傷ついた子犬のように、瞳が揺れている。


「す、すみません……失礼しました」


 彼は小さく頭を下げると、逃げるように自分の席へと戻っていった。

 その背中が、朝よりもずっと小さく見えた。


 胸が、引き裂かれそうに痛い。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 でも、これでいいの。

 これが正しいの。


 私は自分に言い聞かせながら、震える手で書類を整理した。


 


 定時のチャイムが鳴り、私は誰とも目を合わせずに会社を出た。

 これで、元の生活に戻れる。


 あのタバコ臭い家で、夫の世話をして、テレビを見て、年老いていく。

 それが私の「幸せ」なんだ。


 カオリもそう言っていた。世間もそう言っている。


 歩きながら、自分を納得させようとするけれど、足取りは鉛のように重い。

 コンクリートの地面が、私の未来みたいに灰色に見える。


『……つまんない女』


 背後から、低い声がした。

 明菜だ。


 彼女は私の横に並び、冷ややかな目で見下ろしてくる。


『正しさを選んで、死んだように生きるのが貴女の幸せ? 呼吸してるだけで「生きてる」って言えるの?』


 ……うるさい。ほっといて


『あの友達の言葉がそんなに効いた? 「欠陥品」上等じゃない。完成されたゴミになるくらいなら、傷だらけの宝石になりなさいよ』


 綺麗事言わないでよ!

 私には無理なの!

 私は……弱いんだから


 私が叫ぶと、明菜はふん、と鼻を鳴らした。


『まあいいわ。その「正しさ」という名のメッキが、いつまで持つか見物ね』


 ポツリ。


 頬に冷たいものが当たった。

 見上げると、どんよりと曇った空から、雨粒が落ちてきていた。


 梅雨入りだ。

 本降りの雨になりそうな気配。


 私は傘を持っていない。


 濡れて帰ろう。

 どうせ私の人生なんて、冷たくて、湿っぽくて、地味なものなんだから。


 私は雨脚が強まる中、駅へと急いだ。

 この雨が、私の「正しさ」を洗い流してしまう予兆だとは気づかずに。




 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.001

 氏名: 佐々木 洋子(29)

 職業: 事務職 / 自称・良妻賢母(偽)


 現在のステータス

 * メンタル: 氷点下(正論被弾により瀕死)

 * 恋愛感情: 強制凍結中(ただし内部圧力は限界突破寸前)

 * 自己肯定感: マイナス(「私は欠陥品」という呪いにかかっている)


 明菜の分析ログ


 社会的道徳(スーパーエゴ)」の逆襲ね。

 親友という第三者の視点で自分の罪を客観視させられ、急ブレーキを踏んだ状態。


 でもね洋子。物理学でも恋愛学でも同じ法則があるの。


 「抑圧されたエネルギーは、解放された時に爆発的な威力を生む」。


 今の「拒絶」は、ただの圧縮工程。


 次に彼と目が合った時、もしくは触れ合った時……その「正しさ」のダムが決壊するのが楽しみだわ。

 濡れた子犬(徹)は、雨の中でこそ輝くのよ。




※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


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