第四記録【黒電話の包囲網と、震える10円玉】
翌日の午後5時。
定時のチャイムと共に、私は化粧ポーチを掴んでトイレに駆け込んだ。
鏡の前で、口紅を塗り直す。
色は、昨日と同じ淡いピンク。
たったこれだけのことで、私の心臓は早鐘を打っている。
『……ねえ洋子。そのリップの色、ちょっとサゲぽよじゃない?』
個室のドアをすり抜けて、明菜が入ってきた。
彼女は私の顔を覗き込み、呆れたように首を振る。
『もっとこう、ビビッドな赤にしなさいよ。それじゃまるで干物女よ』
ひもの……女?
また変な言葉を。未来の言葉かな?
私は唇をんー、と合わせながら、鏡の中の自分に少しだけ微笑んだ。
干物でもなんでもいい。
今の私は、少なくとも昨日よりは潤っている気がするから。
オフィスに戻り、帰りの支度を始める。
フロアの空気は少し弛緩していて、残業組がお弁当を広げたり、タバコを吹かしたりしている。
高橋係長は、まだデスクにいた。
視線を合わせないように意識しながら、ロッカーへ向かう。
その時だった。
「佐々木さん」
背後から声をかけられた。
振り返ると、彼が書類の束を持って立っていた。
「これ、明日の会議資料です。先に確認お願いします」
事務的な口調。表情も硬い。
でも、彼が差し出した書類の下に、小さく折り畳まれたメモ用紙が挟まれているのが見えた。
……待ってます
彼が唇だけでそう呟いた気がした。
私は震える指で、書類ごとメモを受け取った。
ロッカーの陰で、そっと開く。
走り書きの文字。
『もしよかったら、声が聞きたいです。今日の夜、待ってます。03-452-9170』
カッと顔が熱くなる。
電話。
家の電話に?
『出たわね、昭和のラブレター』
明菜が私の肩越しにメモを覗き込み、口笛を吹く真似をした。
『破壊力抜群ね。LINEもない時代に、直筆のメモを手渡し……このリスクがスパイスになるのよ』
でも、どうして電話なんて……。
会社で話せばいいのに。
『わかってないわね。これは「吊り橋効果」の応用よ』
明菜はジュリ扇でチッチッと指を振った。
『いい? 人間はね、不安や緊張を感じている時に誰かと一緒にいると、そのドキドキを恋だと錯覚するの。彼は今、社内という「公」の場で、貴女に秘密のメモを渡すという「リスク」を冒した。この時、脳内ではノルアドレナリンが大量分泌されてるわ』
明菜は白衣を着た博士のようなポーズをとる。
『そして声が聞きたいという聴覚への刺激欲求。視覚よりも聴覚の方が、脳の扁桃体――つまり感情を司る部分にダイレクトに響くのよ。「文字」で約束して「声」で確認する。この二段構えは、心理学的に見ても、相手を依存させるための完璧なトラップね』
……トラップ、罠。
わかってる。これは罠だ。
でも、自らかかりにいきたいと思ってしまう私がいる。
私はメモを財布の奥底、10円玉の隣に大切にしまった。
午後7時。自宅。
玄関を開けた瞬間、私の希望は絶望に変わった。
「おう、遅かったな」
リビングのソファに、夫の剛が鎮座していたからだ。
いつもならまだ外で飲んでいる時間なのに、今日は直帰したらしい。
片手にはビール、テーブルには柿の種。
そして視線の先にあるテレビでは、ナイター中継が流れている。
「……早かったのね」
「ああ、今日は巨(G)チームの試合だからな」
夫は私の方を見もしない。
問題なのは、彼がいる場所だ。
電話台のすぐ横。
我が家の黒電話は、リビングの入り口にある電話台に置かれている。
コードは短い。親機しかない。
つまり、夫がそこで野球を見ている限り、私は電話などかけられない。
『……チッ。邪魔ねえ、この昭和ザウルス』
明菜がテレビ画面の前を横切りながら、夫を睨みつけた。
『ねえ洋子、追い出しなさいよ。風呂に沈めるとか』
私は夕飯の支度をしながら、夫の様子を伺った。
「ねえ、お風呂沸いてるよ。先に入ったら?」
「後でいい。今、いいとこなんだ」
「お風呂冷めちゃうけど」
「動きたくねえ」
だめだ。根が生えている。
時計の針は午後9時を回った。
――今日の夜、待ってます。
メモの言葉が頭の中で点滅する。
彼は待っている。一人で。
電話の前で、膝を抱えているかもしれない。
午後10時。
試合は延長戦に入った。
夫はまだ動かない。時折、ボリボリと音を立てて柿の種をすすり、テレビに向かって「ヘタクソ!」と野次を飛ばしている。
私の胃の中で、焦燥感が炭酸のように膨れ上がる。
かけたい。声が聞きたい。
でも、かけられない。
『イライラするわね! いっそコンセント抜いてやろうかしら』
明菜も貧乏揺すりをしている。
夫が大きなくしゃみをして、チーンと鼻をかんだ。
その生活音を聞いた瞬間、私の中で何かが切れた。
嫌だ。
この音じゃない。私が聞きたいのは、この音じゃない。
あの優しくて、少し低い、私の名前を呼んでくれる声だ。
「……牛乳」
私は立ち上がった。
「あ?」
「明日の朝の牛乳、買い忘れた。駅前の自販機まで行ってくる」
夫はテレビから目を離さず、「財布持ってけよー」とだけ言った。
私はサンダルを突っ掛け、逃げるようにドアを開けた。
夜の団地の廊下。
生ぬるい風が頬を打つ。
手の中には、数枚の10円玉と、あのメモ用紙だけ。
私は走った。
団地の敷地内にある公園。その入り口に、赤い電話ボックスがポツンと光っている。
ガラスのドアを押し開ける。
中には、古ぼけた電話帳の紙の匂いと、鉄の錆びたような匂いが充満していた。
心臓が痛い。
こんな夜中に、人妻が、男に電話をするなんて。
震える指で、10円玉を投入口に入れる。
チャリン、という硬貨の落ちる音が、やけに大きく響いた。
メモを見る。
ジーコ、ジーコ、ジーコ……。
ダイヤルが戻るまでの時間が、永遠のように長い。
最後の数字を回し終えた。
受話器を耳に押し当てる。
トゥルルル……トゥルルル……。
呼び出し音。
出ないで。いや、出て。
やっぱり切ろうか。
『 くぅ〜燃え上がるわね♡』
明菜がボックスの外からガラスを叩く。
ガチャッ。
音が止まった。
「……はい、高橋です」
息を飲む。
出た。本当に出た。
受話器の向こうから、彼の声がする。
それだけで、耳の奥が痺れるようだ。
「……」
声が出ない。
なんて言えばいい?
佐々木です? かけちゃいました?
どれも違う気がする。言葉が見つからない。
「……もしもし?」
沈黙を埋めるように、彼が問いかけてきた。
「……佐々木さん、ですか?」
ドクン!!
心臓が破裂しそうだった。
どうしてわかるの? 無言なのに。
『ほら! 喋りなさい! 会いたいって言うだけでいいのよ!』
明菜が叫ぶ。
でも、喉が張り付いて動かない。
彼が私の名前を呼んでくれた。私の気配を感じてくれた。
その事実だけで、胸がいっぱいになって、涙が出そうになって……。
ガチャン。
私は、受話器を置いてしまった。
唐突な切断音。
釣銭口に、使われなかった10円玉がジャラジャラと戻ってくる。
やってしまった。
一番卑怯なやり方。
私は電話ボックスの中にしゃがみ込んだ。
ガラス越しに見える月が、滲んで見えた。
翌朝。
会社の給湯室。
私は泥のように重い気分で、急須にお湯を注いでいた。
謝らなきゃ。
いたずら電話だと思われたかもしれない。
嫌われたかもしれない。
ドアが開く気配がした。
香水の匂い。
「おはようございます」
高橋係長が入ってきた。
振り返ると、彼の目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
「あ、おはよう、ございます……」
私は俯いたまま、お茶を差し出すこともできない。
「あの、昨日は……すみません」
蚊の鳴くような声で謝った。
彼は少しだけ目を見開き、そしてふわりと優しく笑った。
「やっぱり、佐々木さんだったんですね」
「はい……あの、かけ間違えたとかじゃなくて、その……」
言い訳しようとする私を遮るように、彼は一歩近づいた。
「嬉しかったです」
「え?」
「無言でも、電話が鳴っただけで。……もしかして佐々木さんかなって思ったら、一睡もできなくて。ずっと電話の前で待ってたんです」
彼は照れくさそうに頭をかいた。
「馬鹿みたいですよね、俺」
ズキュン。
胸の奥を、何かが貫通した。
待っていた。
一晩中。
私の、あの情けない無言電話を。
『はい、陥落』
給湯室の換気扇の上で、明菜が足を組んで言った。
『完全に沼ったわね。もう引き返せないわよ、洋子』
明菜の指先が空中に文字を描く。
【ステータス更新:高橋係長への依存度(中)】
【獲得感情:愛しさ、および強烈な渇望】
私は熱くなった顔を隠すように、深くお辞儀をした。
お茶の湯気よりも熱いものが、体中を駆け巡った。
この心臓のドキドキおさまってよ!
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名: 佐々木 洋子(29)
職業: 事務職 / 共犯者
現在のステータス
* 女子力: D(口紅効果により微増)
* 行動力: B(サンダルで夜道を走る程度には上昇)
* 弱点: 声(聴覚刺激に極めて弱い)
明菜の分析ログ
「手書きのメモ」からの「無言電話」。
一見すると失敗に見えるけど、心理学的には大成功よ。
完結しなかったコミュニケーションは、完結したものより記憶に強く残るいわゆる、ツァイガルニク効果ね。
これで高橋くんの中で、洋子の存在は「解決したい謎」になった。
でも気をつけなさい。
沼が深くなればなるほど、そこから這い上がろうとする「正論」の邪魔が入るものよ
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
この作品が面白い!と思っていただけたのなら
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