第23話 泥濘の追撃戦(チェイス・イン・ザ・マッド)
1. 泥の底の「デッドヒート」
108高地を離れて三日。
ベラルーシの森は、底なしの「黒い泥」で満たされていた。一歩進むごとに、泥がブーツを吸い込み、馬の足首を掴んで離さない。
「……ハァ、ハァ……。シュピース、後ろだ。……連中、しつこく『督促(追撃)』に来やがったぜ」
最後尾を行くハンスが、泥だらけの顔を歪めて言った。
灰色の霧の向こう、森の境界線から、数頭の馬に跨ったパルチザンの影が姿を現した。
彼らはこの土地の泥の「深さ」を熟知している。俺たちが一歩進むのに数分かける場所を、彼らは適切なルートを選び、確実に距離を詰めてくる。
「……連中、俺たちの持っている馬と、僅かな食料(在庫)が目当てか。……あいにく、こっちは『倒産セール』をやってる余裕はないんだがな」
俺は、泥が詰まらないよう銃身をM40コートの懐に隠していたMP40を引き抜いた。
2. 「物流コスト」の限界
馬の足が、ついに限界に達しつつあった。
重い弾薬箱を背負わされた馬が、鳴き声を上げながら膝をつく。その瞬間、周囲の泥が生き物のように馬の身体を飲み込もうとする。
「課長! 馬が立ち上がれません! このままじゃ……!」
ヨハンが必死に手綱を引くが、泥の抵抗は容赦ない。
「……ハンス! オットー伍長! 全員、馬を降りて円陣を組め! ……追いすがってくる『集金人(敵)』どもを、まずは黙らせるのが先決だ!」
俺たちは馬を盾にするようにして、泥の中に腰まで沈みながら構えた。
泥濘期においては、戦術の教科書など役に立たない。あるのは「沈まない場所を確保した者が勝つ」という単純な物理法則だけだ。
3. MG34の「泥中のデモンストレーション」
接近してくるパルチザンたちが、泥を跳ね上げながら叫び声を上げる。
彼らにとって、足を取られたドイツ兵は、ただの「動けない獲物」にしか見えていない。
「……ハンス、やってまえ。……掃除の時間だ」
「待ってました、シュピース!」
ハンスは、馬の鞍に固定したままのMG34のトリガーを引いた。
ダダダダダダダ!!
泥を噛ませないよう、ハンスは自分のM40オーバーコートの端を機関部に被せ、熱と油を保っていた。SS元曹長の「現場管理」が、この極限状態でも機関銃を沈黙させない。
正確な掃射が、パルチザンの先頭の馬をなぎ倒す。
泥の海で馬を失うことが、何を意味するか――。投げ出された敵兵は、瞬時に黒い泥の中に埋まり、自力で立ち上がることさえ困難になった。
4. ハインリヒの「非情な清算」
「……よし、今だ! ヨハン、馬の荷物を半分捨てろ!」
「えっ!? また捨てるんですか!?」
「予備の靴も、予備の銃身も、全部泥に沈めろ! ……今の最優先事項は『速度(キャッシュフロー)』だ! 体力を温存できない奴から死んでいくぞ!」
俺たちは、自分たちの生存に必要な最低限のモノ以外を、未練もなく泥の中に投げ捨てた。
軽くなった馬が、再び足を動かし始める。
「……ヴォルフ少尉! 立ち止まるな、貴方も引け! ……ハンス、殿(しんがり)は任せたぞ!」
「……へいへい。……ったく、うちの曹長は、モノを捨てる時だけは決断が早ぇんだからな!」
泥濘を蹴り、俺たちは再び前進を開始した。
背後では、馬を失い、泥の中でもがくパルチザンたちの絶望的な叫びが、霧の中に吸い込まれていった。
5. 鉄道拠点への「帰社」
三日三晩、泥を食らうような行軍の末、霧の向こうに鈍く光る鉄路と、蒸気機関車の吐き出す黒い煙が見えた。
鉄道拠点、ボリソフ近郊。
そこは泥濘期においても辛うじて機能している、友軍の「物流センター」だった。
「……着いた。……生きて、辿り着いたぞ……」
一等兵のヨハンが、泥まみれの手綱を握ったまま、崩れ落ちるように膝をついた。馬たちも泡を吹き、もはや一歩も動けない。
だが、安堵の息を吐く暇はなかった。
拠点の入り口、土嚢が積まれたチェックポイントに立つのは、首から金属の三日月型のプレートを下げた男たち――**憲兵(フェルトゲンダルメリー)**だった。
「……シュピース、ありゃあ『内部監査』のお出ましだぜ」
ハンスが、泥で隠れた一級鉄十字勲章をそっと指でなぞり、警戒を強めた。
「無断で陣地を空けた俺たちを、あいつらがどう『処理』するか……想像がつくか?」
「……ああ。……まともに説明しても『横領(敵前逃亡)』にされるだけだ。……ハンス、銃は隠せ。……交渉は、俺の『書類(閻魔帳)』でやる」
6. 憲兵隊による「不意の監査」
「止まれ! 貴様ら、所属と部隊番号を言え!」
首からプレートを下げた憲兵曹長が、泥まみれの俺たちの前に立ちはだかった。その手には、安全装置を外したMP40が握られている。
「第3中隊、ヴェーバー曹長だ。……合流した第5中隊の生存者と、重傷のヴォルフ少尉を伴っている」
「……第3中隊? 108高地の死守命令はどうした! なぜ陣地を放棄してここにいる! 貴様ら、逃亡罪で即刻軍法会議だ!」
憲兵の言葉とともに、周囲の兵士たちが銃口を向けてくる。
絶望に耐えて泥を抜けてきた兵士たちの間に、凍りつくような緊張が走った。
その時、俺は泥に汚れた閻魔帳を、わざとらしく憲兵の目の前に突き出した。
7. ハインリヒの「偽装決算」
「……逃亡? 冗談はやめてください、曹長。……これは『戦略的資産の保全(後退)』です」
俺は閻魔帳の、緻密に書き込まれたページを捲りながら、淀みなく数字を並べ立てた。
「108高地は、泥濘により物流が完全に遮断。補給継続は不可能。……一方、我々は敵パルチザン1個大隊の攻勢を撃退。……さらに、第5中隊の残存戦力を『回収』し、現時点での稼働率は100%を維持しています。……もしあそこで死守を続けていれば、これら全ての『人的資本』は、一円の価値も生まない死体になっていたでしょう」
「……屁理屈を抜かすな! 許可なき撤退は逃亡だ!」
「許可? ……ああ、この少尉の署名(サイン)のことですか?」
俺は、意識が朦朧としているヴォルフ少尉の懐から、事前に書かせておいた「臨時移動命令書」を引っ張り出した。
そこには、震える文字で『戦況の変化に伴う、後方拠点への転進を命ず』と記されている。
「……少尉は重傷で、今すぐ『緊急のメンテナンス(治療)』が必要です。……現場の最高責任者の判断に従い、我々は貴重なMG34と地雷原を敵から守り抜き、ここまで『納品』しに来た。……これを逃亡と呼ぶなら、貴方のところの『経理(司令部)』に、一から教育をし直さなきゃなりませんね」
憲兵曹長は、俺の閻魔帳と、泥まみれになりながらもMG34をしっかりと抱えたハンスたちの鋭い眼光を交互に見た。
そして、最後にはヴォルフ少尉の階級章を認め、苦々しそうに銃口を下げた。
「……よかろう。……だが、上の判断が出るまで貴様らは『留置(待機)』だ。……おい、こいつらを野戦病院と補給所に通せ!」
8. 束の間の「キャッシュフロー」
チェックポイントを抜けると、ヨハンたちが泥の上に座り込み、憲兵から投げ与えられた乾燥したパンに齧り付いた。
「……シュピース。……あんた、あの少尉にいつあんな書類を書かせたんだ?」
ハンスが、泥だらけの顔でニヤリと笑った。
「……馬を確保した夜さ。……『もしもの時のための、保険(リスクヘッジ)ですよ』と言ってな。……さあ、ハンス。今のうちに、ここの倉庫から食えるだけの『利益』を掠め取るぞ。……いつまでここを追い出されずに済むか、わかったもんじゃないからな」
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