第22話 泥濘の決算期と、出口戦略

1. 1943年3月、ベラルーシの「解凍」

 それは、最悪の「融資引き揚げ」だった。

 三月に入り、長く厳しかった冬の帳がようやく上がり始めた。だが、解けた雪がもたらしたのは春の息吹などではなく、あらゆる物理的移動を拒絶する底なしの泥――**ラスプティツァ(泥濘期)**の到来だった。

「……クソが。地球そのものが、俺たちの足を引っ張ってやがる」

 ハンスが、サイドカーの車輪を泥から引き抜こうと呻き声を上げた。だが、一歩踏み出すごとに膝まで泥に沈み、重いブーツが吸い付くような土に飲み込まれていく。

 

 道という道は、今やコンクリートと黒蜜を混ぜ合わせたような粘り気を持つ泥の河と化した。ドイツ軍が誇るトラックも、装甲車も、この「インフラの死」の前ではただの鉄屑に過ぎない。

「無駄だ、ハンス。今のこの土地に『物流(ロジスティクス)』という概念は存在しない。……全インフラのシステムダウンだ」

 俺は、泥が跳ねて汚れたM40オーバーコートの裾を忌々しそうに見つめた。ウールは水分を含んで鉛のように重くなり、肩に食い込む。

 

 道が死ねば、補給は完全に途絶える。本社(師団)からの連絡員さえ届かなくなり、108高地は地図の上では味方陣地であっても、実態は「完全に切り離された不良債権」と化した。

2. 閻魔帳の「在庫(命)」の棚卸し

 石造りの農屋。俺は冷え切った空気の中で閻魔帳を開き、現状の「棚卸し」を行っていた。

 合流したヴォルフ少尉の部下たちと、うちの新兵たち。一見すれば、数だけは揃った。だが、兵站という「血液」が止まった今の状況では、人数が多いこと自体が「固定費(食料消費)」の増大というリスクに直結する。

「……さて。……ハンス、ヨハン、ミュラー。そしてオットー伍長」

 俺は集まった幹部候補(と、元曹長)を一人ずつ見据えた。

 閻魔帳には、現在の食料残量と弾薬数がシビアに書き込まれている。

「現在の在庫状況から逆算すると、この『支店(陣地)』の維持可能期間はあと12日が限界だ。……それ以降は、弾を撃つ前に飢えで動けなくなる」

「本社の命令を待つか、シュピース?」

 ハンスが、一級鉄十字勲章を泥のついた指で弾きながら聞いた。

「……命令か。スターリングラードで消えた第6軍の連中も、最期まで『命令』という名の不良債権に縛られていたな。……だが、俺は違う。……商売人は、マーケットが死ぬ前に『損切り』の準備をするもんだ」

3. ハインリヒの「不当解雇(陣地放棄)」の予感

 俺は窓の外で、泥まみれになりながら陣地を補強している兵士たちを見た。

 彼らはまだ、自分たちが「見捨てられた在庫」であることに気づいていない。

「ヴォルフ少尉。……貴方の無線機は、まだノイズを吐くだけですか?」

 部屋の隅で、怪我をした腕を庇いながら無線機を見守る少尉が、力なく首を振った。

「……ああ。……師団司令部は、もう我々の信号を拾っていないか、あるいは拾う余裕さえないんだろう」

「……決まりですね」

 俺は閻魔帳を力強く閉じた。

「補給が来ないなら、こちらから取りに行く。……泥が固まるのを待っていたら、その前にパルチザンの餌食だ。……これより、108高地の『出口戦略(ルート)』を策定する」

 ハインリヒの脳内では、軍の規定を無視した「自主的な撤退計画」が組み上がり始めていた。

 それは、ドイツ軍人としては「逃亡」に近い行為だったが、ディルレヴァンガー大隊としても最も「合理的な資産保全」だった。


3. 「移動手段(アセット)」の入れ替え

 108高地の「車両(アセット)」は、もはや無用の長物だった。

 サイドカーもトラックも、一度泥に足を取られれば、二度と自力では這い出せない。

「……シュピース。あの『鉄の馬』どもは、もうこのオフィスには置いていくしかねぇな」

 ハンスが、膝まで泥に浸かりながら、動かなくなったサイドカーを蹴りつけた。

「ああ。これからは物理的なパワー(馬力)ではなく、現地の環境に最適化された『有機的なキャリア』が必要だ。……ハンス、裏の農村の目星はついているな?」

「ああ。……あそこの農場には、泥の中でも動ける現地の『働き手(農耕馬)』が数頭残っている。……ただし、村の連中からすれば、ありゃあ自分たちの命より大事な『資産』だ。……交渉(接収)には、それなりの覚悟がいるぜ」

 俺は、M40オーバーコートのポケットから、パルチザンから「回収」しておいた塩と砂糖、そして数本の高級なタバコの箱を取り出した。

 この泥濘期においては、一握りの砂糖が、故障したトラックの予備部品よりも遥かに高い価値(通貨)を持つ。

「略奪ではなく、『対等な取引(バーター)』で行く。……余計な恨みを買って、撤退中に後ろから刺されるのは『コスト』が見合わないからな」

4. ヴォルフ少尉との「不文律(コンプライアンス)」の確認

 俺とハンスが馬を調達しに村へ向かう前、俺は再びヴォルフ少尉の元を訪れた。

 彼は無線機のノイズに耳を傾けていたが、その表情には既に諦めが漂っていた。

「……少尉。明朝までに馬を揃えます。……全ての重火器(37mm砲、50mm砲)は、ここで『廃棄処分(損切り)』にします」

「……何だと!? 大砲を捨てるというのか! 命令違反だぞ、ヴェーバー曹長!」

 少尉が立ち上がり、声を荒らげる。正規将校の教育を受けてきた彼にとって、重火器の放棄は「軍法会議もの」の重罪だ。

「……少尉、冷静になってください。……あの鉄の塊を泥の中で引きずり回せば、それだけで兵士たちの体力という『人的資本』が尽きます。……我々の今の目的は、大砲を守ることではなく、この『部隊という組織(会社)』を存続させることでしょう?」

 俺は、閻魔帳に記された兵士たちの名前と、現在の栄養状態、そして移動に必要なカロリー計算のメモを見せた。

「大砲のボルトだけを抜き、砲身は爆破して無効化します。……代わりに我々は、機動力を得る。……これは『負債』を捨てて『身軽』になるための、緊急の事業再編(リストラ)です。……本社の査察(憲兵)には、私が上手く報告書を書いておきます」

 ヴォルフ少尉は、俺の閻魔帳と、外で泥にまみれて疲弊しきった部下たちの姿を交互に見た。

 そして、長く重い溜息をついた。

「……わかった。実務上の判断は君に一任する。……だが、せめてMG34だけは、馬に積んで持っていくぞ。……それさえ失えば、我々はただの『難民』だ」

「……もちろんです、少尉。あれは我々の『主力製品(武装)』ですからね」

5. 泥濘の「調達」交渉

 その日の夕刻。俺とハンスは、泥を跳ね上げながら麓の村へと向かった。

 

「……いいか、ハンス。威圧は必要だが、引き金は引くな。……あくまで『物々交換』の体裁を保て」

「へいへい。……だがシュピース、砂糖一袋で馬が借りられなかったら……その時は『強制執行(強奪)』だぜ?」

 ハインリヒは、軍の規定(ルール)という名のコンプライアンスを、生存という名の「実利」で上書きしながら、泥沼のベラルーシを生き抜くための「足」を確保しに動いた。


6. 泥濘の「営業交渉(アセット調達)」

 麓の村は、家畜の排泄物と腐った雪の匂いが混じり合う、深い泥の中に沈んでいた。

 俺とハンスが村の広場へ足を踏み入れると、痩せ細った農民たちが、警戒心剥き出しの目で家々の陰からこちらを窺っていた。

「……いたぜ、シュピース。あそこの納屋だ。ありゃあいい馬だ、この泥でも根を上げねぇだろうよ」

 ハンスが顎で示した先には、三頭の頑強な農耕馬が繋がれていた。

 村長らしき老人が、震えながらも一歩前に出た。

「……旦那、もう食いもんなら一粒も残っちゃいねぇよ。馬だけは勘弁してくれ、これがいなきゃ来年の耕作が……」

 俺は無言で、M40オーバーコートのポケットから「商品」を取り出した。

 一袋の塩、二袋の砂糖、そして最高級のタバコ三箱。

「……略奪じゃない。正当な『取引(バーター)』だ」

 俺は泥だらけの台の上に、それらを並べた。

「この塩と砂糖、それにタバコがあれば、あんたの村の子供たちも冬を越せるはずだ。……代わりに、その馬を三頭、『長期レンタル(接収)』させてもらう」

 ハンスが、あえて無造作にMG34の銃身を肩に担ぎ直した。

 「誠実な交渉」と「暴力という名の裏付け」。この二つが揃って初めて、戦場での商談は成立する。

 老人は、砂糖の袋を震える指で掴み、その中身を少しだけ舐めた。そして、力なく頷いた。

「……持って行きな。……ただし、あの子たち(馬)を食うのだけはやめてくれよ」

「……ああ。善処(約束)しよう」

7. 108高地の「完全清算」

 村から連れ帰った馬たちが、高地の泥を力強く踏みしめる。

 陣地に戻ると、俺はクナンプとハンスに最後の作業を命じた。

「……予定通りだ。37mm砲、50mm砲……全ての重火器の薬室(ブリーチ)を爆破しろ。……敵に再利用される『譲渡(横流し)』だけは絶対に防がなきゃならん」

 ドガァァァン!!

 短く乾いた爆発音が数回響き、俺たちが半年間守り続けてきた「主力設備」が無効化された。

 ヨハンやミュラーが、自分たちが磨き続けてきた大砲が鉄屑に変わるのを見て、顔を歪めている。

「悲しむな。……我々は今、身軽になったんだ。……『固定資産』を捨てて、『流動性』を手に入れたんだよ」

 俺は、誰もいなくなった石造りの農屋(オフィス)を最後に見渡した。

 閻魔帳に記された、かつてここで戦い、今は雪の下に眠る者たちのリストに、心の中で「決算完了」の印を打つ。

8. 泥の海への「船出」

「……よし。……ハンス、先頭を行け。……一等兵のヨハン、お前は馬の手綱を引け」

 俺たちは、膝まで埋まる泥の中へ、一歩ずつ足を踏み出した。

 馬の背には、解凍されたMG34と、必要最低限の弾薬、そして数日分の食料だけが積まれている。

 背後の108高地が、霧と泥の中に消えていく。

 軍隊としての誇りも、防衛命令という名の義務も、全てあの丘に置いてきた。

 これからは、どこにも属さない、ただ「生き残る」ためだけに動く独立組織だ。

「……シュピース。……この泥の向こうに、本当にまだ俺たちの『居場所(味方)』なんてあんのかね?」

「……市場が消えたなら、別の市場を探すだけだ。……ハンス、泥を跳ね上げろ。……俺たちの『撤退』という名の新しい営業活動は、始まったばかりだぞ」

 1943年、春。

 泥濘に沈むベラルーシを、一団の影がゆっくりと、しかし確かな足取りで進み始めた。

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