第20話 名誉という名の退職金と、強制合併

1. 1943年2月、歪んだ「人事評価」

 1943年2月。スターリングラード崩壊の衝撃は、ベラルーシの凍てつく森をも震わせた。

 ドイツ軍という巨大企業の経営破綻が現実味を帯びる中、本社(師団司令部)から届いたのは、現場の士気を「安売り」で買い叩こうとする露骨な人事発令だった。

「……ハンス、こいつを見てくれ」

 俺は、同じM40オーバーコートの襟を立てて隣に立つ男、ハンス・ゲルバーに封筒を差し出した。

 彼のコートの胸には、かつての栄光である**一級鉄十字勲章(EK1)が鈍く光っている。だが、その肩にあるはずの「曹長」の階級章は剥ぎ取られ、今はただの「懲罰兵(平社員)」**に過ぎない。

「……ハッ。ヨハンとミュラーを『一等兵(オーバーシュッツェ)』に昇進だとよ」

 ハンスが、同封されていた二級鉄十字勲章(EK2)を泥のついた指先で弾いた。

「スターリングラードの穴埋めを、この安っぽいメダルで済まそうってか。笑わせるぜ、シュピース。元・曹長の俺を差し置いて、あのアホ共が先に『出世』かよ」

「本社は実績(スキル)より、扱いやすさ(忠誠心)を選んだらしい。……給料も補給も増やさず、階級という名の『責任』だけを押し付けて、さらなる激務(死守)を強いる。ブラック企業の常套手段だ」

 俺たちは、一等兵に昇格して喜ぶヨハンやミュラーを冷めた目で見つめた。彼らはまだ知らない。その階級章が、「ベテランなんだから、もっと危険な現場へ行け」という無言の圧力になることを。

2. 「不採算部門」の吸収合併

 だが、本社の非情な通達はこれだけではなかった。

「……第3中隊は、近隣でパルチザンに蹂躙され、壊滅した第5中隊の生存者を吸収せよ」

「……要するに、倒産した他店舗の不良在庫(敗残兵)をうちに押し付けるってことか」

 ハンスが忌々しそうに、MG34の予備銃身を叩いた。

 数時間後。雪原の向こうから、幽霊のような足取りで歩いてくる一団があった。

 重火器を捨て、防寒具さえボロボロになった、目から光が消えた敗残兵たちだ。彼らを率いるのは、右腕を負傷し、泥にまみれたヴォルフ少尉だった。

「……第5中隊、ヴォルフ少尉だ。……貴公が、この高地の責任者か」

「……ええ。ハインリヒ・ヴェーバー曹長です。……歓迎したいところですが、あいにく、うちのオフィスも定員オーバー気味でしてね」

3. モチベーション管理の崩壊

 合流した第5中隊の連中は、108高地の塹壕を見るなり、力なく泥の上に座り込んだ。

 彼らは自分たちの「支店(陣地)」を失い、仲間を殺され、這う這うの体で逃げてきたのだ。その背中には、ハインリヒたちが必死に維持してきた規律を一瞬で腐らせかねない、深い絶望が張り付いていた。

「……シュピース。こりゃあ、まずいぜ」

 ハンスが、俺の隣で低く唸った。

「あの一等兵に上がったばかりのヨハンたちの目を見てみろ。あの『負け犬のオーラ』に当てられ始めてやがる」

 一等兵への昇格で浮ついていた新兵たちと、すべてを失って絶望した敗残兵たち。そして、実力がありながら階級を奪われたハンス。

 この歪な構成の部隊を、再び一つの「戦力」へと再建しなければならない。

「……ハンス。お前が『元・曹長』の貫禄を見せる時が来たようだな。研修(教育)の時間だ」

 営業課長として、俺はこの最悪の「合併(M&A)」を成功させるための、非情なマネジメントを開始した。


4. 腐敗の連鎖(ネガティブ・シナジー)

 合流した第5中隊の兵士たちは、108高地の塹壕の底で、泥まみれのM40オーバーコートに丸まっていた。彼らはパルチザンに追い詰められ、仲間を失い、自尊心まで雪の中に捨ててきた連中だ。

「……もう終わりだ。スターリングラードも落ちた。俺たちもここで、あの森の餌食になるだけさ……」

 一人の敗残兵が漏らした弱音が、冷たい霧のように陣地全体に広がっていく。

 さっきまで一等兵への昇進と勲章に浮ついていたヨハンやミュラーまでもが、その「敗北の感染症」に当てられ、銃を握る手を緩め始めていた。

「おい、シュピース。放置してりゃ、この店は明日には店じまいだぜ」

 ハンスが、一級鉄十字勲章が光る胸をそらし、冷ややかに呟いた。

「分かっている。……組織の腐敗は、常に末端の『諦め』から始まるからな。……ハンス、かつての部下(曹長時代)を扱うように、あいつらに『特別研修』を施してやれ」

5. 「元・曹長」の現場教育

 ハンスは無言で歩き出すと、泥の中で震えていた第5中隊の兵士の襟首を、力任せに掴み上げた。

「……ひっ!? な、なんだお前は! 階級章もない懲罰兵の分際で!」

「階級章(肩書き)がなきゃ、何もできねぇのか? おめでてぇ野郎だな」

 ハンスは、男の顔の数センチ先まで自分の顔を寄せた。その瞳には、戦場を幾度も生き抜いてきた猛獣の光が宿っている。

「いいか。ここは108高地だ。ここでのルールは、階級の高さじゃねぇ。……『シュピース(ハインリヒ)の算段に従えるか』、そして『俺のMG34の射線から外れないか』。それだけだ」

 ハンスは男を泥の中に突き放すと、新しく一等兵になったばかりのヨハンたちの前にも立った。

「ヨハン、ミュラー! お前らもだ! その安っぽい一等兵の階級章が、弾丸を防いでくれると思ってんのか? ……この敗残兵どもと一緒に座り込みたいなら、今すぐそのリボンを返上して、俺の前に並べ。俺が直々に『退職手続き(処刑)』をしてやる!」

 ハンスの怒号に、新兵たちが弾かれたように直立不動(アハトゥング)になる。

 「元・曹長」の放つ威圧感は、司令部から届いたどんな辞令よりも重く、鋭かった。

6. 営業課長の「再編」宣言

 俺は、凍りついた50mm砲の傍らに立ち、全員を見渡した。

「第5中隊の諸君。……君たちの『前職(以前の部隊)』での実績はどうでもいい。……今日から諸君は、我が第3中隊の臨時増員枠だ。……ハンスの言う通り、ここでは肩書きは無意味だ。……動かない手、震える足、そして後ろ向きな言葉。……それらは全て『損失』として扱う」

 俺は、せしめてきたばかりのシュナップスの瓶を一本、雪の中に突き立てた。

「だが、俺の指示に従い、この高地を『黒字(生存)』で維持することに協力するなら、温かいスープと、この酒を配分しよう。……絶望して死ぬか、それとも俺の下で泥臭く生き残るか。……今すぐ選べ。……俺は、やる気のない社員に払う給料(弾薬)は持ち合わせていないんでな」

 ヴォルフ少尉が、苦々しそうに、しかしどこか安堵したように俺を見つめていた。

 絶望に染まっていた陣地に、ハインリヒの冷徹な「利害関係」と、ハンスの「暴力的な規律」が再び骨組みを通していく。

「……よし、ハンス。研修は終わりだ。……合流した連中に、37mm砲の予備弾薬の運搬をさせろ。……身体を動かせば、余計なことを考える暇も、凍える暇もなくなるからな」

 1943年、冬。

 歪な「合併」を終えた第3中隊は、再び牙を剥き、ベラルーシの深い闇を睨みつけた。


7. 責任者同士の「契約更改」

 ハンスが敗残兵どもを怒鳴りつけ、塹壕の泥を掻き出させている間、俺は石造りの農屋――今の俺たちの「応接室」にヴォルフ少尉を招き入れた。

 右腕を吊った彼は、まだ幼さの残る顔を苦悶に歪め、汚れた椅子に腰を下ろした。

「……ヴェーバー曹長。君の中隊(ここ)は……少し変わっているな。あの懲罰兵、ハンスと言ったか? あれは一体何者だ。あの身のこなし、ただの兵士じゃないだろう」

「……お目が高い。彼は正規SS師団(武装親衛隊)の元曹長ですよ、少尉。……もっとも、東部戦線の地獄で理不尽な上官を殴り倒し、階級を剥ぎ取られてここに流れ着いた男ですがね。実力だけなら、そこらの大尉より上でしょう」

 俺は机に閻魔帳(手帳)を広げ、万年筆を走らせた。

 ヴォルフ少尉という「名目上の指揮官」を前に、俺はこの部隊の「実権」を確定させるための契約を切り出した。

「少尉、単刀直入に言いましょう。本社の命令は『混成部隊』ですが、実働の指揮は私とハンスが執ります。貴方は『代表取締役(名目上の指揮官)』として、本社への体裁を整えることに専念してください。……その代わり、貴方の部下たちの命は、私の『経営計画』の中で可能な限り保証します」

 ヴォルフ少尉は、一瞬ムッとした顔をしたが、外から聞こえるハンスの凄まじい怒号を聞き、すぐに肩の力を抜いた。彼は賢明だった。この地獄で、自分の「階級」が何の役にも立たないことを悟ったのだ。

8. 閻魔帳の「在庫仕分け(資産査定)」

 俺は窓の外で整列させられている第5中隊の生き残りたちを一人ずつ観察し、閻魔帳に細かく記入していく。これは、倒産寸前の支店から引き取った「不良在庫」をいかに「戦力」へと変えるかの査定だ。

• ハインツ(上等兵): 右目が爛れている。視力に難ありだが、耳が良い。見張り番に最適。

• カール(二等兵): 震えが止まらない。典型的な砲弾ショック。だが、装填作業のような単純反復作業ならこなせるか。要・監視。

• オットー(伍長): 第5中隊の古参。ハンスの威圧に唯一耐えている。この男を「現場リーダー」に据え、ハンスの指示を浸透させるパイプ役にする。

• 新規資産: 壊れた無線機1台(クナンプへ回す)、対戦車地雷12基。

「……ハンス! その地雷を、108高地の裏手にある林道に埋めさせろ。……ヨハンとミュラー、お前ら一等兵の初仕事だ。この敗残兵どもに『地雷の正しい埋め方』を教育しろ。……いいか、一ミリのズレも許すな。それがお前らの階級(プライド)の証だぞ!」

9. 現場の「合併(マージ)」完了

 ハンスは、かつて正規SS師団で培った「鉄の規律」を剥き出しにし、震える兵士たちの顎を蹴り上げる勢いで陣地を再構築していく。

「動け! 止まれば凍る、考えれば死ぬぞ! 貴様らの命を預かっているのは、あの窓から見てる閻魔様(ハインリヒ)だ! あの男に『不良在庫』と書かれたら、その瞬間に貴様らの席はねぇと思え!」

 組織を混ぜ合わせる(マージする)には、共通の作業と、逃げ場のない「役割」が必要だ。

 一等兵に上がったばかりのヨハンたちが、ハンスの威圧感を背に受けながら、新入りたちを必死に指導している。

「……シュピース。……連中、少しは『使い物になる顔』に戻ってきたな」

 ハンスが、重いM40コートの襟を立てながら俺の元へ戻ってきた。

「……ああ。だが、この『急造の再建企業』が、本物の嵐を凌げるかどうか……。決算(実戦)の時間は近そうだぞ、ハンス」

 

1943年2月下旬。

 スターリングラードを飲み込んだ巨大な戦局の歪みが、いよいよこのベラルーシの後方拠点にも、回避不能な「監査(総攻撃)」として押し寄せようとしていた。

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