第19話 凍結する資産と、理不尽な「死守命令」

1. 零下30度の「物理的システムダウン」

 1942年12月。ベラルーシの森は、静まり返った白い墓標へと変貌していた。

 昨日までの底なしの泥濘は、コンクリートよりも硬く凍りつき、吐き出した息は空中で結晶となってシャリシャリと音を立てて落ちる。

「……あ、開かねぇ……クソッ、動けよ……!」

 ミュラーが、重いM40オーバーコートの袖から震える指を出し、MG34のボルトを引こうともがいている。だが、金属同士が凍りつき、岩のようにびくともしない。

 クナンプが丁寧に差したはずの潤滑油でさえ、この異常な低温の前では、部品を完全に固着させる強力な接着剤(糊)と化していた。

「……ミュラー、無理に引くな。ボルトを折る気か。……それはもう『重火器』じゃない。ただの『冷たい鉄の棒』だ」

 俺は重いオーバーコートのポケットから、貴重な燃料用アルコールを染み込ませた布を取り出した。

 

 ベラルーシの冬が突きつける本当の倒産危機。それは敵の弾丸ではなく、この「物理的な停止」だ。兵器が動かず、人間が熱を失えば、戦場という名の市場(マーケット)では一瞬で「退場」させられる。

「ハンス、各兵士のコートの中に、機関銃のボルトを放り込んで温めさせろ。……自分たちの体温で『解凍』するんだ。……あと、一時間おきに互いの顔を見ろ。鼻や耳が白くなっていたら凍傷だ。手遅れになる前に『棚卸し(報告)』しろよ」

「……へいへい。……だがなシュピース。人間の方もそろそろ限界だぜ。……このコートのウール、湿気を吸って凍りつきやがって、まるで『鉄の檻』を着て歩いてるみたいだ」

 ハンスの言う通りだった。

 信頼していたM40コートの重厚な羊毛も、あまりの寒さにしなやかさを失い、兵士たちの体力を容赦なく削り取っていく。

2. 凍りついた給与(食料)

 さらに深刻なのは「燃料(食料)」だった。

 パルチザンから奪ってきたばかりのジャガイモは、今や石ころのように硬く凍り、銃剣で叩いても火花が出る始末だ。パンにいたっては、文字通り「鈍器」だった。

「課長……これ、どうやって食えばいいんですか……」

 ヨハンが、氷の塊と化したパンを悲しそうに見つめている。

「……脇の下に挟んで温めるか、クナンプが火を焚いている横で『解凍』しろ。……いいか、凍ったまま食うなよ。内臓が冷えれば、そこから『破産(死)』が始まる」

 俺は、凍りついた手袋を叩き合わせながら、地平線を睨んだ。

 

 物資は奪った。装備も整えた。

 だが、この「零下30度」という天災級のデフレ不況だけは、営業努力ではどうにもならない。

 そして、そんな現場の惨状など微塵も知らない「本社(司令部)」から、最悪の電話がかかってくるのは、この数分後のことだった。


3. 「ハルテン(死守)」という名の不良債権

 その時、断線したと思っていた野戦電話が、不意に断末魔のようなベルを鳴らした。

 俺は凍りついた受話器を耳に押し当てた。金属の冷たさが耳の薄皮を剥ぎ取ろうとする。

「……こちら108高地、第3中隊。ヴェーバー曹長だ」

『……曹長か、師団司令部だ。……状況を聞け。南方の戦況悪化を受け、全軍に対し総統より「ハルテン(一歩も引かぬ死守)」の命令が下った。……繰り返す、いかなる犠牲を払っても、翌朝まで現陣地を維持せよ。……いいな、いかなる犠牲を払ってもだ』

「……大尉。現場は零下30度です。火器は固着し、兵士の指は凍傷で感覚を失っています。この状況で『死守』を命じるのは、全社員に心中を強いるのと同義ですよ」

『……命令だ、ヴェーバー。撤退を口にする者は、その場で利敵行為として軍法会議にかけると思え。……健闘を祈る』

 無機質なノイズが静寂に消えた。

 受話器を置くと、ヨハンが厚いM40コートの襟に顔を埋めたまま、震える声で聞いてきた。

「……課長。本社は何て?」

「……ああ。……『新年に向けて、未払いの残業代なしで24時間フル稼働しろ』だそうだ。それも、暖房の切れたこのオフィスでな」

4. 現場の「粉飾」と生存戦略

 俺は重いコートの襟をさらに高く立てた。

 本社の命令は「死守」。だが、そのままバカ正直に塹壕に留まれば、明日の朝には全員が「凍結した不良在庫(死体)」になるだけだ。

「ハンス、全員に伝えろ。……命令は『死守』だ。……だが、俺の解釈は違う」

 俺は、丘の下の暗い森の端にある、石造りの農屋を指差した。

「正面の塹壕には、クナンプに作らせた『偽装の火(ダミーの焚き火)』を並べろ。あたかも俺たちがそこに大勢いるように見せかけるんだ。……その隙に、俺たちは重火器だけを抱えて、あの一段下の石造りの農屋に移動する。……あそこなら壁がある分、体温を1度でも稼げる。そこで『解凍』を待ちながら、敵を迎え撃つ」

「……命令違反(粉飾決算)か。……いいぜシュピース。あんたの嘘には、いつも命がかかってやがる」

 ハンスがニヤリと笑い、凍りついたボルトをコートの中で必死に温める新兵たちに指示を飛ばし始めた。

5. シュナップスによる「緊急融資」

 移動を始める前、俺はクナンプの元へ向かった。彼は50mm砲の薬室のそばで、貴重なシュナップスの瓶を逆さにしていた。

「……課長、聞いてください。軍から配給された粗悪なグリスは、零下25度を超えた時点で接着剤と化しました。今のこの『彼女』は、ただの重い鉄の置物です」

「酒を惜しむな、クナンプ。俺たちが飲むはずだった『娯楽費』は、全額『設備維持費』に振り替える」

 俺は自らのポケットからも、兵站部からせしめてきた高級なボトルを差し出した。

「酒で酔わせりゃ、この鉄屑も少しは動く気になるだろう。……動かない大砲は、ただの重たい粗大ゴミだからな」

 1942年、12月の夜。

 ベラルーシの白い闇の中から、ついにパルチザンの総攻撃の足音が聞こえ始めた。

 俺たちは、自分たちの「命」という資産を守るため、偽りの火を残して凍てつく陣地を脱出した。


6. 罠への「集客」と、解凍された火力

 深夜。108高地の旧塹壕跡では、クナンプが仕掛けた「ダミーの焚き火」が寒風に揺れていた。

 パルチザンからすれば、そこは寒さに耐えかねたドイツ兵たちが無防備に暖を取っている絶好の獲物に見えたはずだ。

「……来たぞ。連中、完全に食いついたな」

 石造りの農屋の、小さな窓の隙間からハンスが囁いた。

 双眼鏡を覗くと、白い防寒着を纏ったパルチザンの群れが、音もなく旧陣地へと這い寄っていた。彼らが一斉に「ウラー!」と叫び声を上げ、無人の塹壕へ飛び込んでいく。

「……今だ。クナンプ、接待(デリバリー)を開始しろ」

 農屋の影に隠されていた50mm対戦車砲(PaK 38)が、その黒い砲身を闇に突き出した。

 シュナップスによって固着したグリスを溶かされ、焚き火の余熱で「解凍」を終えたその砲尾は、今や完璧な動作を約束されていた。

 ッゴォォン!!

 零下30度の静寂を、50mm砲の重厚な咆哮が切り裂いた。

 放たれた榴弾は、密集して旧陣地に飛び込んだパルチザンの中央で炸裂し、雪と土、そして「白い影」を夜空へ跳ね上げた。

7. 暖房効率と「アウトソーシング」の成果

「ミュラー、次だ! 37mm(ドアノッカー)も火を噴かせろ! 奴らを旧陣地から一歩も出すな!」

 石造りの壁は、吹き付けるブリザードを遮断し、兵士たちの体温をわずかに守っていた。

 極寒の塹壕では指が動かなかった新兵たちも、この「臨時のオフィス」の中では、なんとか引き金(トリガー)を引くことができていた。

「すごい……! 本当にボルトが動く!」

 ミュラーが歓喜の声を上げながら、MG34の引き金を引き絞る。

 ハインリヒが事前に命じた「各自のコート内でボルトを温める」という、原始的だが確実なメンテナンス(アウトソーシング)が、この決定的瞬間を支えていた。

「いいか! 弾薬はパルチザンから強奪した『流動資産』だ、惜しみなく使え! 奴らに『営業停止(全滅)』を叩き込め!」

 敵はパニックに陥っていた。

 焚き火があるはずの場所には誰もおらず、死角となっていた石造りの建物から、解凍済みの重火器による正確な十字砲火が浴びせられたのだ。

8. 決算完了:偽装と生存の境界線

 数時間の激闘の末、生き残ったパルチザンたちは深い森の奥へと敗走していった。

 108高地の斜面には、再び静寂が戻り、ただ冷たい風が雪を舞わせるだけとなった。

「……ふぅ。……シュピース、どうやら『死守』のノルマは達成したようだな。本社の連中も文句は言えねぇだろ」

 ハンスが、煤けた顔で笑いながら、ようやく冷え切った手を懐に入れた。

「ああ。形式上は『現陣地を維持』し、敵を撃退した。……誰がどの壁の裏で戦ったかまでは、報告書に書く必要はないからな」

 俺は、重いM40オーバーコートの襟を立て直し、夜明けの地平線を見つめた。

 

 本社の理不尽な命令を、現場の知恵で「黒字(生存)」へと書き換える。

 それが、この地獄のようなベラルーシの冬を生き抜く、営業課長ハインリヒのやり方だった。

【第19話 業務報告書(最終)】

• 戦果: 敵パルチザン部隊の撃退。我が方の損害、軽傷2名のみ。

• 総括: 偽装陣地の構築により、敵の攻撃目標を攪乱。石造り建築を利用した「環境維持」が、火器および人員の稼働率維持に直結した。

• 教訓: 物理的な限界(極寒)に立ち向かうには、根性ではなく「解凍手順」と「拠点の選定」というロジカルな対策が必要である。

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