第16話 営業課長の決算予測と、冬の足音
1. 22時、泥のデスクでの事務作業
1942年、10月後半。
ベラルーシの深い森を抜ける風は、もはや「涼しい」を通り越して、肌を刺すような鋭利な冷たさを帯び始めていた。
俺は塹壕の奥、崩れかけた木箱の上に一本の蝋燭を立て、報告書を綴っていた。
軍隊ではこれを「戦時日誌」と呼ぶが、俺にとっては中隊の「収支報告書」だ。
「……10月か」
ペン先が、質の悪い再生紙の上でカリカリと音を立てる。
手帳のカレンダーを見つめれば、昨年の悪夢のような冬の記憶が蘇る。あの時は「モスクワさえ落とせば年内完遂だ」という本社(ベルリン)の楽観論を鵜呑みにした結果、現場は凍傷と物資不足で倒産寸前まで追い込まれた。
そして今年。主戦場は遥か南方のスターリングラードへと移っている。
ここベラルーシは、一見すれば「後方の比較的静かな現場」だ。だが、現場管理のプロとしての俺の勘が、警報(アラート)を鳴らしている。
「シュピース、まだ起きてるのか。熱心なこった」
毛布を頭から被ったハンスが、隣で寝返りを打ちながら声をかけてきた。
「ああ。今後の『経営戦略』を練っていてな。……ハンス、冬が来るぞ。それも、とびきり質の悪いやつがだ」
「……分かってるさ。俺の古傷が疼き始めてやがる。だがなシュピース、今年は去年よりマシだろう? 南方じゃ景気良く攻めてるって話だしよ」
「……どうかな」
俺は地図上のスターリングラードを指先でなぞった。
「あそこは巨大すぎる。投資すればするほど戻りがなくなる『サンクコスト(埋没費用)』の泥沼だ。あっちに戦力を注ぎ込めば注ぎ込むほど、このベラルーシのような『後方拠点』のセキュリティは疎かになる」
2. 営業課長の「最悪のシナリオ」予測
ハンスの寝息を聞きながら、俺は脳内で「最悪のシナリオ」を組み立てていく。
ベラルーシの森に潜むパルチザン――競合他社(ソ連軍)の非正規社員どもは、驚くほど市場動向に敏感だ。
南方の主戦場にドイツ軍の戦力が引き抜かれ、この一帯の「警備コスト(兵力)」が削られていることを、奴らは既に見抜いているはずだ。
(……物流の遅延、鉄道網の爆破、そして防寒具の配給漏れ。……間違いなく、今年の冬は『物流のパンク』が起きる)
俺は書きかけの報告書の余白に、自分なりの「防衛予算案」を書き込んだ。
• 冬期装備の先行確保(正規ルートは期待せず、独自の『接待営業』で)
• 重火器の稼働率120%維持(クナンプの保護)
• 現地調達ルートの確立(村々からの『不適切な徴収』の準備)
3. 心の葛藤:営業課長の限界
ふと、蝋燭の灯火に照らされた自分の手を見る。
かつては高級万年筆を握り、契約書にサインをしていた手。今は、血と硝煙、そして消えない泥が爪の間に染み込んでいる。
(俺は一体、いつまでこの『地獄の出向』を続けるんだ?)
右足を失ってハイマース(故郷)へ帰ったフリッツ。正直に言えば、彼が羨ましい。
だが、俺が辞めれば、この第3中隊はどうなる?
ハンスは、あのアホな新兵どもを誰が管理する?
俺という「調整役(フィルター)」がいなければ、ディルレヴァンガー少佐(博士)の狂気に、奴らは一瞬で飲み込まれてしまうだろう。
「……ふぅ。結局、俺は『社畜』だな。現場を見捨てる勇気もありゃしない」
俺は自嘲気味に笑い、報告書を閉じた。
明日からは、冬に備えた「在庫の積み上げ」という名の営業活動を始めなければならない。
物流が完全に死ぬ前に、どれだけ『先行投資』ができるか。それが、中間管理職に残された唯一の対抗策だ。
2. 物流遅延(デリバリー・ボトルネック)の先読み
10月下旬。
朝、髭を剃るための水に氷の膜が張り始めた。
この「小さな予兆」こそが、戦場という名の市場における最大の暴落フラグだ。
「シュピース。兵站部からの返信が来ました。……冬用装備の配給予定は『未定』。鉄道優先順位は南方(スターリングラード)へ全振りだそうです」
ヨハンが肩をすくめ、吐き出した息が白く濁る。
(予想通りだ。本社は主力商品に全資金を投入し、後方拠点のインフラ投資を切り捨てやがった)
南方の主戦場が「ブラックホール」と化し、このベラルーシに届くはずの物資を飲み込み始めている。パルチザンが鉄道網を狙い撃ちにし始めれば、物流は完全にパンクするだろう。
「……待っていても納品はされん。ヨハン、側車(サイドカー)を出せ。あと、クナンプに修理させたあの『鹵獲品の精巧なカメラ』を持て。……それから、隠し在庫の最上級シュナップスもだ」
「曹長、また『外回り』ですか?」
「ああ。物流が死ぬ前に、**『優先配送枠』**を直接買い叩きに行く。ハンス、俺が留守の間、パルチザンの『飛び込み営業(急襲)』には十分警戒しておけ」
3. 兵站司令部での「先物取引」
俺が向かったのは、師団本部のさらに裏手にある巨大な物資集積所(デポ)だ。
ここには、前線へ送られる前の「富」が山積みになっている。門番である輸送将校たちは、書類とサインという名の鉄壁の防御を固めていた。
「……ヴェーバー曹長か。また貴公か。冬用コートなら昨日も言った通りだ。輸送列車がパルチザンに襲撃されてな、次の入荷は未定だ」
不機嫌そうに書類をめくる輸送大尉の前に、俺は無言で、クナンプが磨き上げたピカピカの「ツァイス・イコン」のカメラを置いた。
「……大尉。これは『贈り物』ではありません。……**『保険』**です。これから冬が深まれば、この集積所の在庫管理はさらに困難になるでしょう。書類上の『紛失』や『破損』も増えるはずだ」
俺は声を潜め、大尉のパーソナルな領域に踏み込む。
「このカメラは、貴方の正確な仕事を記録するための道具です。……そして、その対価として。……倉庫の隅にある、あの旧いM40オーバーコートで構いません。……100着分、今すぐ私のサイドカーと、後ろに待たせているトラックに積ませてください。……もちろん、帳簿上は『敵のパルチザンによる焼失』で処理していただいて結構です」
大尉の目が、精密なカメラのレンズと、俺が差し出したシュナップスの瓶に釘付けになる。
物流が完全にパンクしてからでは、この程度の賄賂では動かない。「今、まだ余裕があるうちに、在庫を不適切に流させる」。これが営業課長流の先物取引だ。
「……ヴェーバー曹長。貴公は……相変わらず、悪魔のようなタイミングでやってくるな」
「いえ、私はただの『慎重な投資家』ですよ。……少佐(博士)に、うちの中隊だけ凍死者が出たなんて報告、したくありませんからね」
4. 現場への「特別配給」
数時間後。サイドカーと、無理やり借り出したトラックには、100着のM40オーバーコートと、追加の毛布、そして大量の油脂が積まれていた。
108高地に戻ると、震えていた部下たちが歓声を上げて駆け寄ってくる。
「おい見ろ! コートだ! 新品じゃないが、ウールがしっかり詰まってやがるぞ!」
ハンスが感心したように、厚手の布地を確かめる。
「いいか野郎ども、これは『本社(軍)』からの配給じゃない。俺が自分の足で稼いできた**『特別福利厚生』**だ」
俺は新兵たちにコートを配りながら、冷たく告げた。
「これを着ている間は、寒さを理由にした居眠りや、銃の整備不良は一切認めん。……温かい身体で、死ぬ気で働け。……冬は、これからが本番だぞ」
俺は、コートを羽織って少しだけ活気を取り戻した陣地を見つめた。
だが、俺の胸の中にある「決算予測」の暗雲は、晴れるどころか、さらに色濃くなっていた。
物資は確保した。だが、市場の崩壊――ベラルーシ全土を包み込む「パルチザンの総攻撃」の足音は、確実に近づいている。
3. 羊毛の重みと、1940年の在庫(ストック)
11月初頭。108高地を包む空気は、もはや肺の奥を凍らせるような鋭利な刃物へと変わっていた。
「……こいつは重いな。だが、安心感があるぜ」
ハンスが、俺がせしめてきた**M40オーバーコート(Wehrmacht Mantel)**を羽織り、肩を回した。
それは、目の詰まった重厚なフィールドグレーのウール地で作られていた。
このコートには、野戦服のような華やかな襟章はない。襟は大きく、裏側には立てた時に形を保つための補強ステッチが入っている。暗がりの中で唯一、階級を示すのは、肩に差し込まれた銀縁の**下士官用肩章(シュルタークラッペ)**だけだ。
「最新のリバーシブル迷彩服じゃないのが不満か? ハンス」
「冗談。あんなペラペラの綿入りより、この**重い羊毛(ウール)**の方が、俺たち『現場』の人間には信頼できる。……見てくれ、このマットに塗装されたボタン。手袋をしたままでも外しやすい絶妙な大きさだ」
新兵たちも、各自に配られたM40コートに袖を通していた。
俺は自分のコートの襟を立て、肩章の縁に指を触れた。ウールの油脂の匂いと、倉庫に眠っていた年月を感じさせる埃の匂い。これこそが、命を守るための「防具」の匂いだ。
「いいか、野郎ども。そのコートのボタン一つ失くすな。この物流状況だ、次にスペアが届くのは来世だと思え。……それから、コートの裾が泥を吸うと重くなって機動力が落ちる。こまめに泥を落とせ。……**『装備の維持(メンテナンス)』**は、体力の温存に直結するぞ」
4. 11月の不気味な静寂(パルチザンの胎動)
夜。俺は塹壕の縁に立ち、暗い森を見据えていた。
オーバーコートのポケットに両手を突っ込み、ウールの温もりに指を沈める。
カレンダーはついに11月に突入した。
遥か南方のスターリングラード方面からは、地平線を赤く染めるほどの激しい砲火の反射が、夜空の端に漏れ聞こえる。だが、このベラルーシの森は、不気味なほどに沈黙を守っていた。
(……静かすぎる)
俺は手帳を取り出し、最近の「競合他社(パルチザン)」の動向を書き連ねた。
• 前方での散発的な狙撃の急減。
• 夜間、森の深部で聞こえる重いエンジン音。
• 鉄道線路周辺での「不審な掘削跡(地雷設置)」の増加。
営業マンとして、競合他社が新製品の発表前に見せる「嵐の前の静けさ」によく似ていた。奴らは南方の崩壊を知っている。そして、この後方の守りが「ディルレヴァンガー」のような不安定な部隊に任されていることも。
「シュピース。さっきから動かねぇで、雪だるまにでもなるつもりか?」
ハンスが、温かい代用コーヒーの入った飯盒を持って隣に立った。
「ハンス、お前は市場が『崩壊』する直前の音を聞いたことがあるか?」
「……あ? 何言ってんだ、寝ぼけてんのか」
「……いや。……もうすぐ、とんでもない『決算』が始まる。……この108高地だけじゃ済まない、ベラルーシ全土を巻き込む大暴落だ」
1942年11月中旬。
ソ連軍の大反攻作戦の余波が、この後方の森にも届こうとしていた。
俺は、M40オーバーコートの襟をさらに高く立て、冷たい闇を睨みつけた。
中間管理職ができる準備は、もう全て終わった。あとは、押し寄せる闇を前に、どれだけの社員を「黒字(生存)」で残せるか。……それだけだ。
【第16話 業務報告書】
• 在庫確保: M40オーバーコート100着、毛布、油脂の調達完了。
• 市場予測: 11月中旬、パルチザンによる大規模な組織的攻勢を予測。
• 現状: 嵐の前の静けさ。物流が完全に死ぬ前に、全ての「設備」を冬仕様へ換装完了。
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