第13話 鋼鉄の女神と、ハイマースへの片道切符

大隊本部となっている廃村の洋館。

 重いドアを叩くと、中から「入れ」という、しゃがれた声が響いた。

 部屋の奥、机に広げられた地図を眺めているのは、SS少佐オスカール・ディルレヴァンガーだ。彼は「博士」という呼び名に似合わぬ、狂気的な光を宿した瞳をこちらへ向けた。

「ヴェーバー曹長。貴公の中隊は、いまだに戦死者が一人も出ていないそうだな。このディルレヴァンガー部隊において、それは驚異的な……あるいは、臆病な数字だ」

「……お言葉ですが少佐。それは適切な現場管理と、安全基準の徹底による『黒字経営』の結果です」

 少佐は薄笑いを浮かべ、地図の108高地をペンで乱暴に叩いた。

「ならば、その優秀な中隊に特別な『プロジェクト』を与えよう。108高地の右翼へ移動しろ。そこは遮蔽物のない裸の丘だが、貴公らなら明日の朝までに無敵の要塞を築けるはずだ。……一歩でも引けば、私が自ら貴公の背中をルガーで『査定』してやる」

 (出た。優良部署に無理難題を押し付けるブラック企業の典型だ)

 俺は心の中で毒づきながら、ヒールを鳴らして敬礼した。

「……ヤー・ヴォール、少佐。納期までに『開店』させてみせます」

108高地の「地鎮祭」

 現場に到着した俺を待っていたのは、寒風の吹き抜ける何もない荒野だった。

 ハンスがシャベルで地面を叩き、金属音を響かせる。

「シュピース、こりゃ無理だぜ。地面はカチカチ、道具は安物のシャベル。これじゃ朝までに塹壕なんて掘れっこねぇ。せっかくの無死記録もここまでか」

「ハンス、泣き言を言うな。営業に『無理』はない。……ヨハン! あそこの街道を通りかかった空軍の建設大隊を止めてこい。相手が不審な顔をしたら、このブランデーを見せろ。……交渉は、相手が『欲しいもの』を差し出すことから始まるんだ」

営業課長の「資材ロンダリング」

 俺は空軍の曹長に、極上の葉巻を差し出しながら耳打ちした。

「曹長、お宅の倉庫に眠っている建設用爆薬……。書類上は『廃棄』ってことにして、俺に数箱回してくれませんか? お礼に、本国直送の酒と、俺が持っている『後方の安全な物資集積所』のコネを融通しますよ」

 数分後。108高地にはシャベルの音ではなく、腹に響く爆破音が轟いた。

 ドォォォォン!!

 爆破で効率よく土を剥き、できた穴を新兵たちに繋がせる。

「いいか、180センチだ! 浅い塹壕は、自分の墓穴を浅く掘っているのと同じだ! 無死記録を更新したければ、規定の深度(クオリティ)を守れ!」

 夜明け前、ようやく「108高地支店」が形になった。

 俺は双眼鏡で東の地平線を見据え、冷たくなったコーヒーを一口啜った。

「……さて。開店準備は整った。あとは『客(ソ連軍)』が来るのを待つだけだ」


1. 嵐の前の「灰色」と、現場用ロービジ換装

 108高地。

 世界は**「灰色」と「泥」**に支配されていた。

 頭上を覆うのは、手が届きそうなほど低く垂れ込めた鉛色の重い雲。そこから吹き降ろす湿った風が、発酵した腐葉土の甘ったるい匂いと、錆びた鉄、そして何日も風呂に入っていない男たちの酸っぱい体臭を運んでくる。

 俺は塹壕の胸壁(パラペット)から身を乗り出し、首から下げた**6x30軍用双眼鏡(ディーンスト・グラス)**を構えた。

 接眼レンズの縁が、俺の体温と冷え切った外気の差で、白く結露する。

 倍率の向こう側には、荒涼とした無人地帯(ノー・マンズ・ランド)が広がっていた。冬を前に枯れ果てたススキが幽霊のように揺れ、その足元には赤錆びて塗装の剥げたT-26軽戦車の残骸が、巨大な骸骨のように転がっている。

 さらにその奥。地平線の彼方に、陽炎のように蠢く黒い点と、鈍い金属の反射が見えた。

 ソ連軍の砲列だ。まるで獲物を狙う野犬の群れが牙を剥くように、無数の砲口がこちらを向いている。

「……ハンス。空気が変わったな。来るぞ」

 俺は双眼鏡を下ろし、自分の「職場」である塹壕の中を見渡した。

 そこには、死を待つだけの退屈な時間を持て余した兵士たちの、生々しく、そして澱んだ日常(レーベン)があった。

 ハンス・ゲルバーは、泥で作った即席の椅子に腰を下ろし、愛銃MG34を膝の上でバラしていた。

 油で黒ずんだウエスで、ボルト(遊底)の汚れを執拗なまでに拭き取る。その手つきは、凶暴な猛獣をなだめる飼育員のようでもあり、あるいは赤子を愛でる父親のようでもあった。

 彼は機関部の隙間に詰まった砂粒を、細い木の枝でほじくり出しながら、苦虫を噛み潰したような顔で毒づく。

「……チッ。この泥だらけのクソッタレな国め。油断すると、すぐこの『お嬢様』の喉に砂を詰まらせやがる」

 彼の横には、湿気から守るために防水布を被せた弾薬箱(パトローネンカステン)が、驚くほど整然と積み上げられていた。

 従卒のヨハンは、塹壕の角で丸くなっていた。

 固形燃料(エスビット)の頼りない青い炎で、飯盒(コッヘル)の湯を沸かしている。

 泥水のように濁った代用コーヒーの湯気が上がり、彼の眼鏡を白く曇らせる。彼はその眼鏡を拭おうともせず、俺の革鞄についた小さな泥汚れを、親指の爪でカリカリと、呪じかけのように落としていた。

 その他の兵士たちも同様だ。

 ある者は軍靴(マルシュ・シュティーフェル)を脱ぎ、ふやけて真っ白になった足を乾かしている。

 ある者は上着を脱いで裏返し、縫い目に潜むシラミを指でプチッ、プチッ、と潰している。

 その残酷なまでに乾いた音だけが、嵐の前の静寂に響いていた。

 俺は指揮所代わりのテントに入り、いつもの「儀式」を開始する。

 着ていた**「勝負服」**――ミュンヘンの老舗仕立屋で作らせた、特注の野戦服(シュナイダー・アンフェルティグング)のボタンを一つずつ外す。

 上質なウール生地、深いダークグリーンの襟、完璧なプリーツが刻まれたポケット。俺の「営業課長」としてのプライドと威厳を形にしたような一着だ。

 俺はそれを丁寧に畳み、防虫剤を忍ばせた頑丈な木箱へ封印する。

 代わりに手に取ったのは、支給されたばかりの安物――**「新型野戦服(M42)」**だ。

 袖を通すと、スフ(人造繊維)が混じった再生ウール特有のガサガサした感触が、肌をチクチクと不快に刺激する。

 ポケットのプリーツは省略され、シルエットはのっぺりとしている。生地の色も鮮やかなフィールドグリーンではなく、泥を塗りたくったような死んだ灰色だ。

 だが、今の俺に必要なのは「顧客(上官)への見栄」ではない。**「生存性」**という名のコストカットだ。

 俺は手鏡を覗き込んだ。

 襟のトレッセ(下士官線)も、胸の鷲章も、かつてのような輝く銀糸ではない。全て光沢のないマウスグレー(ネズミ色)の人造絹糸で織られた低視認(ロービジ)タイプだ。

 肩章の縁取りもくすんだ色で、さらにその上から筒状の**迷彩布(タルン・シュラウフェン)**を被せる。これで俺の階級を示す「星」は、至近距離でも判別不能になった。

「……悪くない。この華やかさを全て削ぎ落とした、プロの道具って感じだ」

 仕上げに、斑点模様の**迷彩スモック(タルンヤッケ)**を頭から被り、腰のベルトを締め直す。

 顔に泥と炭を混ぜたペイントを塗りたくれば、鏡の中にいるのは指揮官ハインリヒではない。

 ただの薄汚れた、正体不明の「戦場の部品」だ。

 俺はテントを出て、ヨハンに重たい革鞄を託した。

「ヨハン。この鞄を死守しろ。……中身は俺の命より高いんだぞ。泥ハネ一つで査定に響くと思え」

「ヤー・ヴォール(了解)! 命に代えても!」

 鉄兜(シュタールヘルム)のあご紐をきつく締め直した瞬間、ピタリと風が止んだ。

 

 来る。


2. 鋼鉄の耕作(トロンメルフォイヤ)と「職場放棄」

 その瞬間、世界から「色」と「静寂」が消失した。

 夕闇に沈みかけていた108高地の稜線が、一瞬にして千の太陽が弾けたような閃光で真っ白に焼き尽くされた。

 音よりも先に、物理的な塊となった衝撃波が来た。

 空気がハンマーとなって俺の肺から酸素を叩き出し、体を塹壕の壁面へ容赦なく叩きつける。

 ズドドドドドーン!! ドガガガガ!!

 ソ連軍の準備砲撃。

 それは、単なる嫌がらせの砲火ではない。**トロンメルフォイヤ(Trommelfeuer:太鼓の連打砲撃)**だ。

 地平線の彼方に並んだ数百門の火砲が、一斉に、かつ絶え間なく鋼鉄の雨を降らせ始めたのだ。

 地面がトランポリンのように跳ね上がる。

 内臓がシェイクされ、歯の根が合わない。舌を噛まないよう、俺はマウスピース代わりに革手袋の端を口に押し込んだ。

 152mm榴弾の重低音が、足の裏から胃袋の底を揺さぶり、122mm野砲の破裂音が鼓膜をずたずたに引き裂く。

 塹壕のパラペット(胸壁)が崩れ、熱を帯びた土砂がザァーッと背中に流れ込んでくる。ヨハンが大切に守っていたコーヒーの香りは、一瞬で火薬の硝煙臭に上書きされた。

 だが、真の絶望は重砲ではない。あれだ。

 「……ッ、ドカン!!」

 「バムッ!!」

 俺の背筋に氷の柱が立った。

 76.2mm野砲(ZIS-3)。ドイツ兵が**「ラッチュ・バム(Ratsch-Bum)」と呼んで恐れる死神だ。

 砲弾が音速を超えて飛来するため、発射音が届く前に着弾し、大地をえぐる。

 つまり、「音が聞こえた時には、もう生きているか死んでいるかの結果が出ている」**のだ。避ける暇も、言い訳する隙も、神に祈る時間さえ与えない。理不尽極まりない「即死案件」の連発。

 さらに、空を引き裂く不気味な金切り声が重奏となって響く。

 ヒュイイイイイイイ……

 ド・ド・ド・ド・ド・ド・ド!!

 カチューシャ多連装ロケット砲。

 精度こそ低いが、一度に数十発が降り注ぐその破壊面積と、何よりその「死の調べ」が人間の神経を粗いヤスリのように削り取っていく。

 「伏せろ! 頭を抱えろ! 舌を出すな!」

 俺は叫んだが、自分の声は自分にさえ届かない。

3. 職場放棄(パニック)と「咀嚼(ルーチン)」

 砲撃開始から30分。

 人間という生物の精神が耐えられる限界点を超えた頃、ついに**「事故」**が起きた。

 近くのタコツボにいた若い兵士――元ケチな詐欺師のミュラー二等兵が、突然奇声を上げて立ち上がったのだ。

「ああああああ!! 嫌だ! 埋められる! 帰してくれぇぇ!!」

 彼の目は完全に見開かれ、焦点が合っていない。

 「戦慄(クリークスツィッテルン)」――シェルショックだ。

 彼は命よりも重いはずのヘルメットを投げ捨て、一番安全な塹壕の底から、鋼鉄の雨が降る地上へ這い出そうとしている。

「辞めてやる! こんな職場(場所)、今すぐ辞めてやるぅぅ!!」

 放っておけば、彼は次の瞬間に爆風で千切れて四散する。それだけなら「自業自得」だが、彼のパニックが他の新兵に伝染すれば、この現場(中隊)全体が瓦解する。

 これは**「営業課長としてのトラブルシューティング」**だ。

「ヨハン、伏せてろ!」

 俺は泥を蹴立て、ミュラーの腰にタックルをかました。

 もみ合いになりながら、俺は彼を泥水が溜まった塹壕の底にねじ伏せた。

「離せ! 帰るんだ! 列車に乗ってハイマース(故郷)へ帰るんだよぉぉ!!」

「馬鹿野郎! 落ち着け!」

 パニックに陥った人間に理屈は通じない。

 俺は、かつての職場で過労により錯乱しかけた新人を正気に戻した時のことを思い出した。必要なのは慈悲ではない。**「強制的なタスクの割り当て」**だ。

 俺は彼の襟首を締め上げ、耳元で怒鳴りつけた。

「ミュラー! 俺を見ろ! ここは会社だ! 勝手な早退は許さん!!」

 俺はポケットから、ヨハンが命がけで死守していた「予備の堅焼きビスケット」を引ったくり、ミュラーの口に無理やりねじ込んだ。

「食え!!」

「むぐっ!?」

「噛め! 顎を動かせ! 脳みそを騙せ! **『咀嚼(カウエン)』**は生存維持のための最低限のルーチンワークだ! これは業務命令だぞ!!」

 ミュラーは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、口の中の乾いた塊を吐き出そうとしたが、俺が泥まみれの手で口を塞いだため、反射的にガリッ、ボリッと噛み始めた。

 ガリッ。ガリッ。

 爆音の隙間に、砂混じりのビスケットを噛み砕く無機質な音が響く。

 生物は物を食べている間、本能的に「今はまだ、捕食される瞬間ではない」と誤認する性質がある。

 数秒後。ミュラーの痙攣が止まった。

 彼は呆然と俺を見上げ、口の端からビスケットの粉をこぼしながら、震える声で漏らした。

「……曹長……? 俺……まだ……クビじゃないんですか……?」

 俺は冷徹な「上司」の顔を崩さずに答えた。

「死ななきゃクビにはせん。……いいかミュラー。外に出れば即死だ。生きてハイマースに帰りたければ、俺の隣で大人しく泥を食ってろ」

 俺は彼のヘルメットを拾い、力任せに被せ直した。

 

 ズドオオオン!!

 至近弾が炸裂し、俺たちの頭上に土砂が降り注ぐ。

 だが、塹壕の中のパニックは収束した。プロジェクトの崩壊は、一枚のビスケットによって食い止められた。

 あと30分。

 この「理不尽な会議」を耐え凌げば、次は俺が「鋼鉄の女神」という名の最大戦力を市場(戦場)に投入する番だ。


4. 案件炎上(プロジェクト・クライシス)と、外部委託

 一時間に及ぶ**トロンメルフォイヤ(連打砲撃)が、唐突に止んだ。

 キーン……という耳鳴りだけが鼓膜にこびりつく、真空のような静寂。

 だが、それは「休憩時間」ではない。本当の地獄――「納期」**の始まりを告げるチャイムだった。

 硝煙が重く垂れ込める霧の向こう側から、地鳴りのような叫びが聞こえてきた。

 「ウラー!!(万歳)」

 ハンスが双眼鏡を置いたまま、アイアンサイトの向こう側に蠢く無数の影を捉えて吐き捨てる。

「……シャイセ(Scheiße:クソッ)。後ろの銃声を聞け。督戦隊(NKVD)だ。奴ら、一歩でも引けば背中をマキシムで撃たれるぞ。死ぬ気で来やがる」

 ダダダダダダッ!!

 ハンスのMG34が火を吹く。銃身の熱で陽炎が立ち上るが、彼の手は精密機械のように安定していた。

 ソ連歩兵の第一波がなぎ倒されるが、その後ろからさらに倍の数が湧き出てくる。

 前からはドイツ軍の弾幕、後ろからは督戦隊の銃撃。板挟みになったソ連兵たちは、もはや理性を捨てて、仲間の死体の山を乗り越えながらこの108高地へなだれ込んできた。

 右翼の第1小隊が食い破られた。

 「サニテータァ(衛生兵)!!」

 T-34戦車の巨体が、黒煙を吐きながら俺たちの塹壕の真上をまたぐ。泥とオイル、そして焦げたゴムの強烈な悪臭が鼻を突く。

 名もなき新兵がキャタピラの下で、悲鳴を上げる暇もなく泥と一体化した。

 (在庫切れだ。弾も人も、もう持ち出し分がない。……このままじゃ一気に倒産(全滅)だ)

 俺は奥歯を噛み締め、血と泥でヌルヌルする有線電話(FF33)の受話器を引ったくった。

 自社のリソースでは対応不可。残された唯一の手段は、圧倒的な物量を持つ**「外部委託(アウトソーシング)」**による強引な解決のみだ。

5. 営業課長の「納期交渉」

 俺はダイヤルを回し、国防軍の砲兵中隊――先日、なけなしの私財(ヴィンテージ・ブランデー)を投じて「接待」しておいた、あの砲兵大尉へ回線を繋いだ。

「こちらヴェーバー! 緊急発注だ! **シュペルフォイヤ(Sperrfeuer:弾幕射撃)**を要請する!」

 爆音の隙間から、大尉の焦燥しきった怒鳴り声が返ってきた。

『ヴェーバー曹長か! ……座標はどこだ!?』

「座標、ドーラ・4・7(Dora-4-7)!」

 一瞬の絶句。その後、受話器が割れんばかりの絶叫が届いた。

『ドーラ・4・7だと!? ……おいヴェーバー、貴様気は確かか! そこは貴官らの**「鼻先(デンジャー・クローズ)」**だぞ! 誤差一つで貴様らもろとも更地になるんだぞ!』

 俺は営業スマイルの欠片もない、地獄の底から響くような声で畳み掛けた。

「規定はどうでもいい、現場(ここ)を見ろ! 『顧客(ソ連軍)』がもう受付(塹壕)のドアを蹴り破って、目の前に立ってるんだ!」

『しかし、安全基準では味方から最低でも150メートルは離さなければ……』

「基準だと? 現場を知らん本社の人間みたいなことを言うな! こっちは**『即納』**を要求しているんだ! 先日のブランデーの『借り』、今すぐ一滴残らず返してもらいますよ、大尉殿!!」

 俺は受話器を握りつぶさんばかりに叫んだ。

「修正なし! 『納期』は今、この瞬間だ! 商品(10.5cm榴弾)を俺のデスクの真上に叩き込め! 今すぐだ!!」

『……シャイセ(クソッ)! イカれた野郎だ、死んでも知らんぞ!』

 大尉が諦めたように、背後で号令を飛ばす声が聞こえた。

『全砲門、効力射! 座標修正なし! ヴェーバーの鼻先へ叩き込め! アハトゥング、フォイヤ(Achtung, Feuer:注目、撃て)!!』

6. 鋼鉄の女神(シュタール・ゲッティン)の降臨

 俺は受話器を投げ捨て、塹壕の底に這いつくばって絶叫した。

「商談成立だ!! 総員、伏せろぉぉぉ!!」

 数秒後。

 頭上の空が、物理的に引き裂かれた。

 「バリバリバリバリ!!」

 それはヒュルルル……という生易しい風切り音ではない。巨大な布を力任せに引きちぎるような、大気の断末魔だ。

 次の瞬間、視界の全てが白銀の閃光で塗りつぶされた。

 ズドドドーン!!! ドガアアアン!!!

 陣地前方、わずか30メートル。

 10.5cm榴弾の集中豪雨が、大地を粉々に粉砕した。

 凄まじい爆風(ブラスト)が熱風となって塹壕の中を走り抜け、俺の顔に塗った泥ペイントを瞬時に焼き固めていく。

 

 圧倒的な「納品量」だ。

 迫りくるソ連歩兵の波が、立ち往生していたT-34戦車が、炎の壁に飲み込まれ、まるで玩具のように宙に放り出されていく。

 鉄と肉が混ざり合い、赤い霧となって消滅していく光景。

 ハンスが、降り注ぐ土砂と破片の中で狂ったように笑った。

「ハハハッ! 見ろシュピース! ブンダーバー(素晴らしい)! 最高の外注仕事だ! 敵だけが地獄へお急ぎ便だ!!」

 ヨハンも、恐怖が極まって逆にハイになっている。

「すげぇ……! すげぇよ曹長!! 生きてる、俺たち生きてる!」

 俺は震える手で泥を掴み、眼前に広がる炎のカーテンを見つめた。

 これが、中間管理職の「接待」と「恫喝」がもたらした奇跡だ。

 金貨とブランデー、そして意地で手に入れた、あまりにも高価で、あまりにも美しい破壊。

「……あぁ。見ろハンス。**戦場の女神(ゲッティン)**のお通りだぜ」

 ハンスがニヤリと笑い、叫び返した。

「ああ! 最高に気性が荒い、俺たちの**鋼鉄の女神(シュタール・ゲッティン)**だ!!」

 塹壕の中は、生還の喜びと破壊の興奮で、異様な熱気に包まれていた。

 だが、この**「成功体験(熱狂)」**こそが、一人の若者を、取り返しのつかない「事故」へと誘うことになる。


7. 英雄の疾走と、女神の裏切り

 「女神」の猛威が止んだ。

 陣地の前には、10.5cm榴弾によって無残に耕された赤茶けた土と、バラバラになった鉄屑、そして先ほどまで「人間」だったものが、ただの肉片として無数に転がっている。

 硝煙が低く立ち込め、風が吹くたびに焼けたゴムと肉の混ざった不快な臭いが、鼻腔の奥にこびりつく。

 その煙のカーテンの向こう側。

 一両のT-34戦車が、片方のキャタピラを引きずりながら、瀕死の猛獣のように黒煙を上げて立ち往生していた。砲塔が弱々しくこちらを向こうと旋回し、駆動系の軋む嫌な金属音が静まり返った戦場に響く。

「……チャンスだ。今ならいける。今なら!」

 フリッツが、タコツボの中で身を乗り出した。

 彼の瞳孔は極限まで開ききり、心臓は爆発の高揚感で早鐘のように打っている。喉は張り付くように乾き、先ほどまでの死の恐怖は、脳内を満たすアドレナリンによって「万能感」へと書き換えられていた。

 (女神が俺に微笑んでいる……。俺がこいつを仕留めれば、勲章(ボーナス)だ。英雄になれる。この泥まみれの懲罰部隊から、輝かしい表舞台へ戻れるんだ!)

 「ウオオオオオ!!!」

 俺が制止の声をかける間もなかった。

 フリッツは獲物を狙う狂犬のような勢いで、塹壕を飛び出した。

 

 彼の耳には、もう周囲の銃声も、ハンスが叫ぶ援護の怒号も届いていない。

 視界はトンネルのように極端に狭まり、焦点の先には、燃え上がる鋼鉄の巨体しかない。

 彼は泥を蹴り、全力で疾走する。肺に突き刺さる熱い空気。軍靴が泥を噛む感触。

 彼は戦車の死角、右後方へ滑り込んだ。

 エンジンの熱気が顔を焼く。震える手で吸着地雷(HHL3)の磁石を装甲板に叩きつけた。

 ガチンッ!

 磁力が吸い付く確かな手応え。

 彼は柄の頭にあるキャップをねじ切り、点火紐を勢いよく引き抜いた。

 シュッ!

 信管が燃える微かな音を確認するや否や、彼は無我夢中で数メートル離れた窪地へ身を投げ、泥の中に顔を埋めた。

 ズドオオオン!!

 背後で凄まじい爆風が吹き荒れ、大気が物理的な塊となって背中を叩く。

 

 フリッツは、ゆっくりと顔を上げた。

 目の前ではT-34の砲塔が内部爆発で浮き上がり、ハッチから巨大な火柱が天を突いている。

 「やった……やったぞ!!」

 彼は膝を突き、そして立ち上がった。

 燃え上がる戦車を背負い、夕闇の中で彼はガッツポーズを作った。

 勝利の陶酔。全能感。

 周囲の安全を確認する(クリアリング)という、兵士としての、あるいは「現場作業員」としての基本動作を、彼はその瞬間の悦びに全て売り払ってしまったのだ。

 俺は、双眼鏡の円の中でその光景を凝視していた。

 

 燃え盛る鉄屑の影。

 黒煙のカーテンが風に揺れた一瞬、そこに見えたのは、督戦隊に追われ、行き場を失って泥の中にへばりついていた、たった一人のソ連兵の姿だった。

 ソ連兵の目もまた、絶望と狂気で血走っていた。

 彼は震える手で、PPSH-41短機関銃の銃口を、無防備に立ち上がる「英雄」へと向けた。

「伏せろフリッツ!! 残心(クリアリング)はどうした!! 終わってないぞ!!」

 俺の絶叫は、風にかき消された。

 ババババッ!

 乾いた、不快な連続音が響いた。

 

 フリッツの右足、膝から下が、まるで赤い霧を噴き出すスプリンクラーのように激しく弾け飛んだ。

 「あ……?」

 彼は、自分の体がなぜ傾くのか理解できないような、呆然とした表情を浮かべた。

 

 彼は重力に従い、操り人形の糸が切れたように泥の中に沈んだ。

 一拍置いて、神経を直撃する地獄からの激痛が、彼の脳を焼き尽くした。

「ぎゃあああああああ!! 俺の足! 足がああぁぁ!!」

 戦場の女神は、微笑んだ直後に、その鋭い牙で彼の未来を食いちぎったのだ。


8. 非情なアフターケア(評価面談)

 夜が明けた。

 東の空が白み始め、昨夜の鉄と炎の嵐が嘘のような、冷たく澄んだ青空が広がっている。

 だが、108高地の斜面には、回収しきれない肉片と、燻り続ける鉄屑の臭い、そして朝露に濡れた死臭が重く沈殿していた。

 俺は、ヨハンが自らの命よりも優先して守り抜いた**「勝負服(カスタム野戦服)」**に着替えた。

 ミュンヘンの仕立屋で作らせた、特注の旧型(M36)スタイル。

 泥一つない、ピシッとプレスされた襟元。深いダークグリーンの襟に輝く銀糸のトレッセ。

 さっきまでの「ロービジ(低視認)の古参兵」とは別人のような、圧倒的な威厳を纏った「営業課長」として、俺は野戦病院への護送を待つ担架の前に立った。

 そこには、右足を膝から下で失い、顔面蒼白になったフリッツが横たわっていた。

 包帯からはまだ赤い血が滲み、彼は脂汗を流しながら、焦点の定まらない目で俺を見上げた。

「……シュピース……。俺、英雄に……なれましたか……?」

 その声は、昨日の突撃の時の雄叫びとは程遠い、消え入りそうな掠れ声だった。

 俺は無言のまま、彼の胸元に三つのメダルを、一つずつ静かに置いた。

 黒ずんだ銀色の二級鉄十字章。

 戦車を仕留めた証である戦車撃破章。

 そして、流した血の代償である、生々しい戦傷章(黒)。

「ああ、英雄だ。本物のな」

 俺は冷徹な、しかしはっきりとした口調で続けた。

「……だが、今日でお前は**『定年退職(アウスゲファレン)』**だ。この会社(中隊)に、片足のランナーを置く余裕はない」

 フリッツの目から、大粒の涙が溢れた。

「嫌だ……帰りたくない……。まだ戦えます……皆と一緒に……。俺は、英雄に……」

 俺は担架の横に静かにしゃがみ込み、タバコに火をつけて、彼の震える唇にくわえさせた。

 そして、彼の耳元で、周囲には聞こえないような低い声で、現実という名の宣告をした。

「諦めろ。胸を張って、**ハイマース(Heimat:故郷)**へ帰れ」

 俺は顎で、塹壕の周辺に転がっている、直撃弾を受けてミンチになったソ連兵や、名前を判別することすら不可能になった味方の「残骸」の方を、冷ややかにしゃくった。

「……いいか、フリッツ。五体満足とは言わん。だが、肉片(ゴミ)にすらなれなかったあいつらよりは、お前は100倍マシだ。少なくともお前には、故郷の親に見せる顔がある。墓に入るための、温かい『体』が残っているんだ。……生きてここを脱出できることこそが、最大のボーナスだと思え」

 フリッツは息を呑み、紫煙を肺の奥まで吸い込んだ。

 むせ返りながら、彼は自分の胸に置かれたメダルの冷たさを確かめるように、震える指で触れた。

 

 「英雄」としてのプライド。そして、それ以上に重い「生きて地獄を脱出できる」という安堵感。

 それらが混ざり合い、彼は顔を歪めて嗚咽を漏らした。

「……ハイマース……。母さんに、会えるんですね……」

「ああ。これでお前の『業務』は終了だ。あとの泥仕事は、残された俺たちの仕事だ」

 俺は立ち上がり、担架を運ぶ衛生兵に合図を送った。

 フリッツを乗せた担架が、静かに後方へと運ばれていく。

 彼はもう二度と、この鉄の臭いがする大地を踏むことはないだろう。

9. 終業後の朝礼(アペル)

 俺はゆっくりと踵を返し、ボロボロになった第3中隊の残存メンバーが待つ陣地へと戻った。

 ハンス、ヨハン、そしてミュラー。泥と血にまみれ、亡霊のような顔をした部下たちの前に、ピカピカの制服を着た俺が立った。

「総員、アペル(朝礼)だ。……整列」

 不揃いな列に向かって、俺は革手袋をはめ直しながら告げた。

「見たか。あれが『功名心』という名の安全不覚だ。……俺が一番評価するのは、英雄になって片足を失う奴じゃない。泥を食ってでも生き残り、翌朝にまた『おはようございます』と挨拶ができる奴だ。……我が社のモットーを唱和しろ!!」

 兵士たちは、自分たちの「生」を噛み締めるように、声を絞り出した。

「安全第一(ジッヒャーハイト・ツエルスト)!! ヨシ!!」

 冷たい風が吹き抜け、108高地に積もった硝煙の臭いをさらっていった。

【第13話 業務報告書】

• 損害: 戦死12名、重傷者フリッツ(本国送還)。

• 教訓: 英雄は博物館に飾ればいい。生きてハイマースの土を踏むこと。それが、この過酷な営業活動における唯一の「黒字」である。

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