第9話 地獄の「資材調達」と、鉄壁の営業スーツ
1. 営業マンの身だしなみ(TPO)
その日、俺は限界を迎えていた。
トイレットペーパーと石鹸の在庫が尽きたのだ。
不衛生な環境は病気の温床だ。尻も拭けない軍隊に勝利はない。
「ハンス、トラックを出せ。後方の兵站基地へ出張だ」
出発前、俺は兵舎の前で泥だらけのスモックを脱ぎ、着替えを始めた。
助手席に乗り込んできたハンスが、目を丸くする。
「……伍長、なんでそんなにキメてるんですか? たかが荷運びでしょう?」
俺は**初期型ジャックブーツ(マァシュシュティーフェル)**を入念に磨き上げながら答えた。
「ハンス、お前は分かっていない。これから行くのは『戦場』ではなく『商談の場』だ」
俺は襟元のホックを外し、あえて開襟にして、黒いネクタイをキュッと締めた。
そして、クラッシュキャップを少し斜めに被り、マップケースを小脇に抱える。
「取引先に作業着で会う馬鹿がどこにいる? 人は見た目が9割だ。特に、後方の役人たちはな」
2. 恐怖の検問所と「空白の襟章」
トラックはガタガタと未舗装路を走る。
しばらくすると、前方にバリケードが見えてきた。
国防軍の**野戦憲兵(フェルトジャンダルメリ)**だ。胸のプレートから「チェーン・ドッグ(鎖付きの犬)」と恐れられる彼らは、規律違反者を捕まえるのが仕事だ。
「げっ、憲兵だ……」
ハンスが青ざめる。
「伍長、俺たちの襟章を見られたら終わりだ。この『バツ印(交差した小銃と手榴弾)』は、犯罪者部隊の印だぞ」
「安心しろ。俺の襟を見ろ」
俺はニヤリとした。
俺の右襟には、SSの象徴である「ルーン文字(SS)」も、ディルレヴァンガーの「バツ印」もない。
ただの**「真っ黒な空白」**だ。
(※単に支給が間に合っていないだけなのだが)
憲兵が停止の合図を出し、嫌な顔で近づいてきた。
「おい、所属と目的は……」
俺はトラックから降り立った。
カツンッ!
初期型ブーツの硬質な音が響く。
憲兵の視線が、俺の襟元に釘付けになった。
(……なんだ? 右襟に何もない「黒一色」……? まさか、**保安諜報部(SD)**か!?)
SSの中でも、諜報や警察任務を担当するSDは、右襟が「黒無地」であることが多い。
憲兵にとって、最も関わりたくない「身内の監視役」だ。
俺は動揺する憲兵の目の前で、右手を高々と突き上げた。
「ハイル・ヒトラー!」
完璧な政治的敬礼。
憲兵は完全に萎縮し、慌てて敬礼を返した。
「し、失礼しました! どうぞお通りください!」
「ご苦労。……職務に励めよ」
俺は鷹揚に頷き、トラックに戻った。
「……チョロいもんだ(心臓バクバクだけど)」
3. 村での「丁寧すぎるロシア語」
さらに進むと、小さな村を通過した。
俺は地図確認(という名の休憩)のために停車を命じた。
痩せこけた村の長老が、恐怖に満ちた目でこちらを覗き見ている。
ハンスが威嚇しようとしたが、俺は制した。
俺は転生特典(?)の語学知識をフル活用し、長老に話しかけた。
怒鳴り声ではない。教本通りの、極めて丁寧なロシア語で。
「イズヴィニーチェ(恐れ入りますが)……」
長老がギョッとした。ドイツ兵は普通、「ダワイ!(よこせ!)」か「ルキ・ヴェルフ!(手を上げろ!)」しか言わないからだ。
「ウ・ヴァス・イェスチ・パルチザン?(こちらの在庫に、パルチザンはいらっしゃいますか?)」
まるで「卵はありますか?」と聞くような口調。
長老はあまりの不気味さに震え上がり、首を横に振った。
「い、いません……誰も……」
「ハラショー(そうですか)。スパシーバ(ありがとう)」
俺はニッコリ笑って、「もし来たら伝えてくれ」とロシア語で続けた。
「**『アポイントメント(予約)のない訪問はお断りだ』**とな」
俺がトラックに戻ると、ハンスが戦慄していた。
「(……すげぇ。敵の言葉までペラペラかよ。しかも、あんな穏やかな口調で『パルチザンはいねぇだろうな?』って脅しやがった……)」
4. 補給基地での「演劇」
そして到着した国防軍の野戦補給基地。
受付カウンターの奥には、ピカピカの制服を着たエリート中尉がふんぞり返っていた。
「あぁ? ディルレヴァンガー? 帰れ! 犯罪者にやる石鹸などない!」
中尉はこっちを見もせず、手を振って追い払おうとした。
完全にナメられている。
俺はハンスを目で制し、中尉のデスクの真ん前に進み出た。
そして、その瞬間。
カァンッ!!
俺は初期型ブーツの両踵を、思い切り打ち鳴らした。
乾いた、鋭い金属音が静かなオフィスに響き渡る。
中尉がビクッとして顔を上げた。
その目の前で、俺は右腕を45度の角度でビシッと突き上げた。
「ハイル・ヒトラー!!!」
部屋中の空気を震わせるような、大音量の敬礼。
中尉の目が点になった。
開襟シャツにネクタイ。
アルミ銀糸のトレッセ。
そして、「黒無地(SD疑惑)」の右襟。
(……ヒッ! ベルリンから来た**『特務監査官』**だ……!!)
5. VIP待遇とコーヒードリップ
俺はゆっくりと右手を下ろし、無表情のままマップケースから書類を取り出した。
「……失礼。ヴェーバーです。本日は正規の手続きに基づき、物資の受領に参りました」
俺は回転式ペンシルを取り出し、クルクルと回しながら中尉を見据えた。
「まさかとは思いますが……『在庫がない』などという、**業務怠慢(サボタージュ)**な回答はありませんよね? 中尉殿」
「あ、いや……!! もちろんだとも!」
中尉は椅子から飛び上がらんばかりに立ち上がった。
「わ、我が軍の在庫管理は完璧だ! すぐに手配しよう! おい、何をしている! こちらの方に特級品の石鹸をお持ちしろ!」
中尉は揉み手をしながら、俺にコーヒーを勧めてきた。
俺は出されたコーヒーを一口すすり、ネクタイを少し緩めた。
その仕草すら、中尉には「激務に追われる本庁の役人」に見えた。
「……ふむ。悪くない香りだ」
「はっ! 光栄です! ついでに、こちらのハムの缶詰も……これは私の個人的な『敬意(口止め料)』です!」
6. 誤解の帰還
数十分後。
俺たちは、石鹸、トイレットペーパー、そしてハム缶とコーヒーを満載して帰路についた。
夕陽に染まる道を走りながら、俺は助手席でネクタイを緩め、ザァーネボンボンの包み紙を開けた。
カサカサ……
「ふぅ……肩が凝るな。やっぱり営業スマイルは疲れる」
ハンスがハンドルを握りながら、バックミラー越しに俺を尊敬の眼差しで見ていた。
「伍長……あの踵鳴らし(ヒール・クリック)、痺れましたよ。あの中尉、顔面蒼白でしたぜ」
「音で威嚇するのは基本だ。猫除けと一緒だよ」
俺はキャラメルを口に放り込んだ。
こうして俺は、トイレットペーパーとハム缶、そして「謎のロシア語を操るSD監査官」という新たな異名を手に入れた。
だが、この語学力が、次なる**「予期せぬ出会い(同胞との遭遇)」**を引き寄せることになるとは、まだ知る由もなかった。
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