第4話 無能な上司の「完全介護」マニュアル

1. 引きこもりの小隊長


 殺伐とした朝礼(という名の装備点検)を終えた俺は、その足で小隊本部へと向かった。

 本部といっても、俺たちの兵舎より少しマシな、屋根のある農家の離れだ。

 ここに、俺の直属の上司がいる。

 第2小隊長、シュミット少尉(SS-Untersturmführer)。

 噂では、どこかの貴族の三男坊で、親のコネで士官になったものの、東部戦線の現実に耐えきれず精神を病み、この懲罰部隊に飛ばされたらしい。

 (……やれやれ。前の会社にもいたな、こういう「使えない天下り上司」。扱いは慣れているが)

 俺はドアの前で軍靴の踵を鳴らし、ノックをした。

「第3分隊長、ハインリヒ・ヴェーバー。入ります」

「……ひっ!? ま、待て……!」

 中から、情けない悲鳴と、瓶が転がる音が聞こえた。

 俺は構わずドアを開けた。

 部屋の中は酒臭かった。

 机に突っ伏していた若い将校――シュミット少尉が、ビクつきながら顔を上げた。

 顔色は青白く、金髪はボサボサ。軍服は着崩れ、とても「SS将校」とは思えない有様だ。

「あ、ああ……ヴェーバーか。なんだ、お前か……」

 俺の顔を見て、シュミット少尉は安堵の息を吐いた。

 彼はこの部隊の荒くれ者たち(犯罪者)を極度に恐れている。

 まともに会話が通じる(ように見える)俺だけが、彼の唯一の精神安定剤なのだ。


2. ハンコさえ押してくれればいい


 俺は直立不動で、右手を挙げて敬礼した。

「ウンターシュトゥルムフューラー(少尉)。第3分隊12名、事故なし。装備点検完了しました」

 SSの流儀に従い、あえて「Herr(殿)」は付けない。

 事務的に呼びかける俺の声に、シュミットは縋るような目を向けた。

「そ、そうか……。あいつら、暴れなかったか? 俺を殺しに来たりしないか?」

「ご安心ください。規律(と査定の恐怖)は叩き込みました」

「す、すごいな君は。あの獣たちを手懐けるなんて……」

 シュミットが震える手でシュナップスの瓶に手を伸ばす。手が滑って酒が軍服にこぼれた。

 

 (……あーあ。だらしない)

 俺は無言で近づき、自分の胸ポケットから綺麗なハンカチを取り出した。

 そして、母親が子供にするように、彼の濡れた襟元を丁寧に拭いた。

 さらに、だらしなく開いていた彼の軍服の第1ボタンを、キュッと留めてやる。

「ウンターシュトゥルムフューラー。身だしなみが乱れております。大隊長(ディルレヴァンガー)に見られたら、処刑されますよ」

 脅し文句を優しく囁く。シュミットがヒッと息を呑んだ。

「……す、すまない」

 俺はハンカチをしまうと、懐から一枚の書類と、愛用の**回転式ペンシル(ドレーブライシュティフト)**を取り出した。

「本日の行動計画書と、小隊の人員報告書です。すでに私が作成しておきました。ウンターシュトゥルムフューラーは、ここにサインをするだけで結構です」

 本来なら小隊長が頭を悩ませて書くべき事務書類だ。

 だが、この手合いに仕事を任せると、ミスだらけで差し戻しを食らい、結局俺が残業することになる。

 最初から俺が完璧に仕上げて、決裁印だけもらう。これが社畜の処世術だ。

「おぉ……! 全部やってくれたのか! 君は本当に優秀だなぁ!」

 シュミットは涙目で俺を見上げ、喜んでサインをした。

 これでいい。

 実質的な指揮権は俺が握り、責任(サイン)はこの無能な上司に取らせる。

 理想的な「傀儡政権」の完成だ。


3. 最強の副官(という誤解)


「では、私はこれで。……ウンターシュトゥルムフューラーは、どうぞごゆっくり(引きこもっていて)ください」

「あ、ああ。頼んだぞ、ヴェーバー」

 俺は完璧な敬礼をして部屋を出た。

 ドアを閉めた瞬間、俺は大きくため息をついた。

 (……疲れる。なんで戦場で介護職員みたいなことをしなきゃならんのだ)

 だが、振り返ると、そこにはハンスたち第3分隊の面々が待機していた。

 彼らは俺と、閉ざされた小隊長室のドアを交互に見た。

 特に、元曹長のハンスの目が鋭く光った。

「(……おい。今の声、聞こえたか?)」

 部下たちがひそひそと囁き合う。

「(ああ。あの神経質なシュミット少尉が、ヴェーバー伍長にペコペコしてやがったぞ)」

「(伍長が襟を直してやってた時、少尉は震えてたぜ……)」

 どうやら、俺の「甲斐甲斐しい介護」は、彼らの目には**「無能な上官を威圧し、意のままに操る冷酷な支配」**として映ったらしい。

 ハンスがニヤリと笑い、俺に近づいてきた。

「へっ……驚いたな。あんた、ただの『管理屋』じゃねぇな」

 ハンスは俺の襟の銀糸のトレッセと、部屋の中の無能な少尉を見比べた。

「無能な士官(オフィツィーア)は使い潰して、実権は下士官(俺たち)が握る……か。悪くねぇやり方だ」

 元曹長のハンスにとって、現場を知らない無能な上官は唾棄すべき存在だ。

 その上官を完全にコントロールしている俺の姿は、彼なりの「理想のリーダー像」にハマってしまったらしい。

 (……いや、違う。俺はただ、ハンコが欲しかっただけなんだが)

 誤解を解く気力もなく、俺は将校用ベルトの位置を直し、クラッシュキャップを目深に被り直した。

「何を見ている。仕事(パトロール)の時間だ。遅れると査定に響くぞ」

 俺の一言で、ならず者たちが弾かれたように動き出す。

 さっきまでの殺気立った空気とは違う、奇妙な連帯感――「この伍長についていけば、無能な上官に殺されることはない」という信頼のようなものが生まれ始めていた。

 

 上司は無能な傀儡。部下は勘違いした殺し屋。

 俺の中間管理職ライフ(と胃痛)は、加速する一方だ。

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