【第五章:フィナティピ王国篇】

第4話 『蒼印の目覚め ― 氷結陣に潜む影』



 ――風は古き誓いを運び、雪は忘却を凍らせる。

 氷の国の朝は遅く、世界の音は薄い銀の膜の向こうに沈む。


 ハイフィディック北端、フィナティピ北部。

 その外れ、白い峡谷の底に「氷紋の誓士団」の古塔――氷結のグラーヴィルが立っていた。

 塔は凍てつく風を巻き込み、雪煙を幾重にも歪ませて外界の目を遮る。

 だがその静謐の下、氷の底で薄く蠢くものがある。

 眠れる“蒼印”が、ゆっくりと脈を打ち始めていた。


 語り手は囁く。

「蒼い印は、眠りから覚めるとき、必ず一つの“息”を求める」と――。



【朝の祈りと、星の沈黙】


 小さな宿屋の窓辺。

 白魔導士 ユーコ・クラウス・リップコットン は、薄氷を透かして見える流氷の光に目を細めていた。

 金糸の髪が青白い光を受けてきらめき、両手には古い星詠の巻物がある。

 しかし唇は動かない。

 いつものような詠唱の輪が、今日は見えなかった。


 彼女は胸の前で手を重ね、静かに息を吐く。

「……星が沈んでいる。声が、遠いのです。」


 巻物の余白に記された古い一文――

『神の契約は、光を以て人を縛るか。』

その文字が、胸の奥に冷たく突き刺さる。

祈りの音が消えた理由、それは星の沈黙か、それとも心の迷いか。

 ユーコはまだ、その答えを知らなかった。



【誓士の槍、静かなる共鳴】


 そのころ、街外れの凍てた広場で、銀槍士 リュゼ・アウリステル は、雪の上に跪いていた。

 腕輪に溶けた蒼銀のルーミナス・グレイヴが脈打つように震える。

 薄い霧が足元から立ちのぼり、右腿の奥で蒼光が波紋のように広がる。

 ――蒼印の共鳴。


「……聖銀が言っています。風は何かを運んでいる、と。」


 マーカス・ロッティ は背後で帽子を押さえ、軽く口角を上げた。

「その“何か”を、酒場の噂が先に嗅ぎつけてるかもな。」


 冗談めかした声に、リュゼは控えめに笑みを返す。

「そうだといいですね。けれど……この風は、どこか違う気がします。」


 蒼の紋様は淡く瞬き、雪霧の中に一瞬、古き陣形の影が浮かんだ。



【星詠の違和感】


 夜。宿屋の小さな祈りの間。

 ユーコは再び詠った。星々へ、流れへ、記憶へ――。

 だが詩の半ば、声がひときわ低く震え、彼女の瞳に青い揺らぎが宿る。


 聞こえたのは星の声ではない。

 海底の鎖が擦れるような、かすかな響き。

 それは祈りへの拒絶ではなく、問いかけのようにも感じられた。


「……誰のための契約なのですか?」


 彼女の胸の奥で、星々の沈黙が答えを待っている。

 星霊教の巫女としての自覚ではなく、ひとりの祈り手として――。



【影の囁き】


 その頃、港の暗がりでは黒布の影が揺れた。

 氷灯の下、三つの赤い環を刻んだ紋章が淡く光る。

 ――闇の契約教団(カース・コンヴェント) の密使たち。

 彼らはこの地に漂う“蒼印”の脈動を遠目に測り、静かに次の歯車を回し始めていた。


「……ノクスの環は動き出した。封印の鎖が、一つ、軋む。」


 雪煙がその声を呑み込み、港は再び静寂に沈んだ。



【決意の朝(エピローグ)】


 夜明け。

 雪はわずかに融け、凍土の上に微かな光を差し込ませる。

 子どもたちの笑い声が遠くで響き、街は短い安息を取り戻していた。


 ユーコは窓辺で巻物を閉じ、静かに微笑む。

「私は、祈りのために歌うのではない。……守るために祈るのです。」


 その言葉は、彼女自身への誓いだった。

 リュゼの蒼印は再び静まり、遠く港の闇の密使は風と共に姿を消す。


 語り手は言う。

「彼らの足跡は氷に刻まれ、やがてそれは溶けて潮となり、真実を運ぶだろう」と。

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