【第四章:インデビト王国篇】「深層の審律」

第1話 『紅水路の渡航(こうすいろのとこう)』


――〈双祈の開幕〉――

人の祈りは旅の途にあり、

世界の詩はその足跡を抱いて流れる。


氷の章を越えし者たちよ、

いま水の調べへ向かう――。


 氷霜の国メルツを発って十日。

 マーカスとユーコ・クラウス・リップコットンの旅は、雪解けの風を背にして、南西へと流れていた。

 彼らの前には、陽光を孕んだ大河――〈紅水路(こうすいろ)〉が横たわる。

 それはメルツとインデビトを隔てる古の境界、

千年前の大戦で血潮を吸い、その名を得たと言われている。


 風はぬるく、雪の匂いをわずかに残しながら、

春を運ぶように流れていた。

 マーカスは馬車の縁に片足を乗せ、帽子を指で押さえ、遠く水面に映る紅を見つめた。


「……やっと氷の風ともおさらばか。

 今度の国は“水の律法”で動いてるんだったな?」


 ユーコは頷き、彼の隣で手帳を閉じた。

 淡い青の外套が、陽に透けてきらめく。


「ええ。

 インデビト王国――水環の神を祀り、

 『調律の審議』によって国家を統べる国。

 でも……今は、封印の不調で“審律”そのものが乱れていると聞きます」


マーカスは短く笑った。

「どこの国も、きっちりしたルールほど壊れやすいもんだな。

 ……けど、行くしかねぇ。あの封印がまた共鳴し始めた以上は」


 二人の言葉の奥には、氷の柱で見た“共鳴の記憶”が潜んでいた。

 メルツでの戦いの余波、そして封印の律動。

 その波は今も彼らの胸の奥で鳴っている。


 船は、赤銅色に光る流れへと滑り出した。

 紅水路を渡る渡船〈セレスティア号〉。

 甲板の下では、船頭たちが祭祀歌を低く唱えていた。


 水の神よ 巡る環をわれらに返せ

 時の淀みを祓い 声なき記憶を沈めよ――


 船上に流れるその祈りに、ユーコの指がわずかに震えた。

 彼女はそっと胸のペンダントに触れる。

 それはかつてインデビトから彼女に授けられた聖印、“深層の環”を象るものだった。


「ユーコ、どうした?」

「……この水。懐かしい気がするんです。

 私がまだ修行の旅をしていた頃、

 この流れを見たことがあるような……」


「前世の記憶か、それとも封印の声かもな」

 マーカスの言葉に、ユーコは微笑んだ。

 水の光が彼の瞳を照らす。

 その色は、かつて氷の城で見た“暁光”と同じ、深い紅に染まっていた。


 ――その瞬間。

 遠く、水面がざわめいた。

 紅水路の中央、霧の向こうにぼんやりと影が浮かぶ。

 巨大な円環のようなものが、ゆっくりと回転している。


「……見えるか? あれが、国境のアクア・ゲートだ」

 マーカスが呟いた。

 それは水と魔力で構築された巨大な門――

 封印の審律を管理するインデビトの第一障壁。


 光が門を走り、波紋のように空へ昇ってゆく。

まるで天と地をつなぐ梯子のように。


 ユーコは目を閉じ、風に祈るように囁いた。

「どうか、この国の審律がまだ、祈りを覚えていますように……」


 船はその祈りの言葉を背に、ゆっくりと紅水路を渡っていった。

 霧が晴れ、蒼の都が姿を現す――

 水上に浮かぶ宮殿群、幾千の水路、銀の橋。


 それが、彼らの次なる舞台――インデビト王国。


――世界の声が言った。

「彼らの足跡は、いま水へと沈み、

  心の底に眠る審律を呼び覚ますだろう」と。



予告詩:

「青き都インデビト ― 水環と審律の国 ―」

水が記憶を抱き、祈りが律を刻む。

そこに待つのは、静かなる調律の扉。

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